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[地表から深さ10米に及ぶシルト層よりなる田中野田の地層]

〔その5〕

昭和63年7月号 第11号 中尾佐之吉

1.はじめに
 昨年(平成元年)から田中野田地区の区画整理事業が始まった。その手始めにこの地区の都市計画道路「大元-辰巳線」(幅員27米)が東端から建設されている。この工事で野田川に架設されるR・C橋の基礎工事にコンクリ-トパイルが打たれたが、長さ10mのパイルが自重でスルスルと一気に地表面まで入ってしまうのである。工事現場を見られた方もあると思う。…ということは、この地区の地質がきわめて軟弱である証拠といえる。このことをもっと詳しく説明しよう。

2.砂礫層(支持層)の上層は軟弱な「シルト層」
 昭和62年度、この地区の区画整理事業開始に先立ってボ-リング調査(地質調査)が行われた。この資料によると地層の上部は厚さ約10mの細粒土層(シルト層)と言われ、砂と粘土との中間の細やかさをもつ土の層である。シルト層の中間に2mくらいの砂の層のところもあり、シルト層の下に砂礫を主体とする洪積層(註1)が堆積してこの地区の支持層となっている。パイルもこの層にまで打ち込まれて定着することになる。高層建築の場合はさらなる支持層-岩盤-に達するまでの支柱を打たねばなるまい。
 田中野田第二公園の東に6階建のマンションを建てられた和気輝明さんの話では、地下24mの岩盤までパイルを打ち込んでこのマンションを建てたという。この地区の地下構造がわかる。

3.「シルト層」はどのようにしてできたのか
 この地域は大昔、瀬戸内海の一部であったことは間違いない。しかし、太古から瀬戸内海があったかというとそうではないようだ。瀬戸内海は数万年前に陸地が陥没してできたという(註2)が、はじめから海ではなかった。

 地球最後の「ウルム氷期」が終わり、1万年くらい前から地球が温暖化に向かい、日本の縄文時代前期に地球の気温が最高となる。このため、海水準が現在より2~5m高くなったと言われている(註3)。この縄文海進によって瀬戸内海も生まれた。当時、この地方の北は半田山あたりまで海水に浸されていたのである。その後、縄文・弥生時代を経て現水準までの海退があり、旭川・笹ヶ瀬川から排出される土砂の堆積で、干潮時には陸地が見えるようになって葦原を形成したものと思われる。

 ところで、課題の「シルト層」の形成だが、次のように推測する。この地方が海であった頃、南は児島、西は早島、北は半田山・花尻山、東は東山などに囲まれていて「穴の海」と呼ばれていたそうだ。したがって、瀬戸内海本流とは離れていたし、旭川や笹ヶ瀬川河口にしても今よりずっと北の牧石や津高あたりであったろう。この両河川から排出される土砂も河口から遠くのこの地方では微細な粒子となって堆積した。そして、氷河時代に地表であったと思われる砂礫層の上に「シルト層」を形成した。何せ、仮に微粒子が1年に1ミリ積もっても5千年後には5mとなり、1万年には10mとなるのだから。
 妹尾町長だった同前峰雄さんの著された「児島湾(岡山文庫)」という本の中で次のようなことが書かれている。

 「児島湾では”一日に紙一重ずつ埋もれている。”という俚言(りげん)がある。干潟漁撈者が何かの拍子に沖板を潟に置忘れることがある。一潮が退いたあと潟へ探しおりてみると、板の表面がまるで薄い灰色の膜を張りつめたように、こまかな泥の粒子に覆われているではないか!別途に人為作用を加えなくても、大自然の巨大なエネルギ-が一日ごとに紙一重、年間15センチずつ粉末微粒の砂泥を沈殿し沖積し、湾全体に軟質干潟を造成し続けているのである」

 この地方の「シルト層」もこのような調子でできたのに違いない。ただし、一年に15センチも積もったのでは理屈に合わないが“海退”と干拓などにより「穴の海」が「児島湾」に縮小されてからのことであろう。
 最近、市の下水道局が市道西市-中仙道線で行ったボ-リング調査でも同様の結果が出ているから、この地区のような軟弱地層をもつ地域は広範囲なものと思われる。
 昭和の初期、この地区に上水道が敷設されたが、それ以前の住民の飲料水は井戸水であった。私も子供の時、このきれいな水がどのくらい深さのところから湧き出ているのであろうかと思ったが、誰にも聞かず今もって分かっていなかった。前述の地質調査から推察して地下10mくらいの砂礫層までパイプを打ち込んで、井戸水を得ていたのだということが想像できる。私たちが居住しているこの地下の姿も、私たちの生活に深い関係があることは言うまでもないことである。

 ■註1 「洪積層」は洪積世に沈積して生じた地層である。洪積世は約100万年前から2万年までの地球の地質時代をいう。また、洪積世は氷河時代とも言われる(広辞苑より)。
 ■註2 瀬戸内海は「沖積世」(ほぼ、2万年前から現代まで)初期に中央構造線の北縁に沿う陥落帯が海になったもの(広辞苑より…注3参照のこと)。
 ■註3 平 朝彦著「日本列島の誕生(岩波書店)」から関係箇所を抜書きすると
「…氷河期には海水準が低下し、2万5000年前には、現在より 120m程海面が低かったと言われています。…」
「…約1万年前から海面が上昇しました。それに伴い礫層はアシの繁る湿地帯に変わり、やがて侵入して多くの平野は内湾となり粘土層が堆積しました。約6000年前には海水準は今よりさらに2~5mほど高く…その後海水準は再び低下し、現在にいたっています。…」

 宗田克巳氏著「旭川(岡山文庫)」によると、この地方のことについて次のように書かれている(P56)。
「…縄文海進で海水準が上昇したものであるが、その最高潮期は、現海面より6mくらい高かったものと考えられている。…」

(後著:この表題の記事は平成のはじめ頃、町内新聞へ掲載させてもらいましたが、当事は勉強不足で説明の適切でなかった箇所が、沢山あることに気づきました。よって、参考書をもとにこのように書き改めさせてもらいました。平成10年)

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