本文へ

文明開化の先駆者、医師「原善十郎」先生のこと

〔その7〕

昭和64年1月号 第9号 中尾佐之吉

 田中の墓地に医師「原 善十郎」先生の墓がある。善十郎先生はこの町内の生まれで、原善連さんの祖父にあたる方。明治34年(1901年)に47歳の若さで亡くなられている。
 善十郎先生は、明治初年(1868年)にはまだ13歳であった。医学を学ばれたのは数年後のことであろうが、就学されたのは大阪であったそうである。この時期、西洋医学を取り入れた医学校は数も少なかったに違いない。

 大阪には緒方洪庵(1810~1863)の経営する、かの有名な「適塾」があった。洪庵の息子の緒方惟準(これよし)が明治2年東京の病院長から大阪の病院長になり、オランダ医師ボ-ドインが教師に任命されたことが本にも書かれている。
 医師の養成所(医学校)が併設されていたと思われるし、善十郎先生もそこで学ばれたのではないかと推察するのである。
 明治の初期、この片田舎であった田中野田に西洋医学を身につけられたお医者が開業されたのである。何というすばらしいことであったろう。地区民にとっては大きな誇りを感じたにちがいない。 

緒方洪庵

 この町内で現在94歳になられる大森譲二さんの話ですと(もちろん、譲二さんがこどもの頃)、当事、善十郎先生が遠方へ往診される時は大八車に乗せられて行かれたと言うことで、今の私には想像できないことだった。
 明治2年に人力車が発明され急速に普及したようなので、後には人力車を利用されたことであろう。その人力車とて後年のようなゴムタイヤの車輪ではなかったろうから、乗り心地は大八車と大して違わなかったと思われる。
 また、酒が大変好きだったそうだから、善十郎先生は豪放磊落でこだわりのない人柄であったと信じたい。頼まれれば気軽に往診してもらえた先生であったと推量させてもらうのである。

 善十郎先生は、残念ながら年若くして世を去られた。なんということであろう。先生に啓発されてか、先生の没後、先生の本家筋にあたる原正雄先生(原渥美氏ご尊父)ご兄弟、原正雄先生のご子息、原渥美氏のご子息など、続々と善十郎先生の跡を継いでお医者さんになっておられる。
 原正雄先生もこの地で開業されていた。おかげで私達も引き続いて近代医学の恩恵を享受できたのである。郷土における文明開化の先駆者であった善十郎先生に改めて「ありがとうございました」と墓前に手を合わさなければならないと思うわけである。

SNS 文字 ページトップ