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難産だった今村の上水道敷設

〔その23〕

平成7年1月号 第33号 中尾佐之吉

1.はじめに
 私たちの地区、元の御津郡今村では昭和7年上水道が完成した。当時、今村は純農村の田園地帯であって飲み水を井戸に頼っていても水質が悪く飲用に適する井戸は1%に過ぎず、河水を濾過して使用する家が21%もあるという状況で、よい飲料水の確保は保健衛生のために村行政の上でも放置できない課題であった。
 幸い岡山市の上水道の2期拡張工事で村境まで水道が敷設されたし、市からもこの水道水を今村に供与してもらえる見込みも得られたので、にわかに上水道敷設実現の可能性が高まり、遂に昭和4年、今村は9万7千円の予算を計上し村議会もこれを議決した。そして、事は順調に運ぶかに見えたがそうはならなかった。この後のいきさつを述べる前に同じように難航した岡山市の上水道建設のことに触れてみたい。

2.着工までに難航した岡山市の上水道建設
 岡山市の上水道は明治38年に完成している。しかし、着工したのは明治36年である。 それ以前は岡山市でも飲料水は井戸水であったし、その水質は岡山市史によると次のような状況であった。「当時における市内の井水検査総数2207に対し飲用に適するもの僅かに50にして他は概ね濾過を要するものたり」と。
 また、当時はコレラ・赤痢・腸チフスなどの伝染病が多発していた。さらに明治33年開校した第六高等学校誘致に上水道設置が条件となっていることもあって(国の補助の内諾も得ていた)、上水道敷設計画は市議会もすんなり通過していたのである。

 ところが、起債の予定が思うように行かなかった。そして景気は悪くなる。しかもその時期、市会議員改選が行われ新議員が反対する。などでその執行が危ぶまれていたところ、たまたま、明治35年にコレラが大流行、岡山市だけでも患者数982、死者705という有様…。時の県知事も岡山市への水道設置補助金10万円を県議会と大喧嘩をして押し通すなど県の支援も得て、さしも難航していた水道問題が一挙に解決したという。
※参考資料:岡山市史・岡 長平著「岡山風土記」/蓬郷 巌著「県庁ものがたり」

3.話を今村にもどす
 スム-ズに進むかにみえた今村の上水道の建設も、村民から見れば一戸あたりおよそ200円の負担となる。目下、大不況の折から到底このような多額の負担は堪えられないと、昭和4年11月村民284名の連名で村長へ陳情し、また同月村民大会が催され反対決議がなされた。さらに翌5年7月には、村議会も総辞職するに及んだ。
 事態を憂慮した清水長郷代議士・粕山八郎治県議・佐藤芳田村長・則武白石村長らが調停斡旋に乗り出され、昭和6年3月遂に反対派と妥協成立した。その条件は事業費を6万7千円に減額し、その資金の大部分は政府から20年償還の低利融資を受けるということであった。

 貝原助役は上京して内務省に融資の交渉をしたが、緊縮財政を理由に容易に応じてもらえなかった。だが、助役は空手では帰れないと16日間もねばって6万5千円の融資をものにしたという(上京前、黒々としていた青年助役の頭髪が、帰る時は銀髪となっていたそうだ)。
 かくして昭和6年4月着工、翌7年12月懸案の上水道が完成したのである(今村上水道については「今村史」・佐藤 勲著「今村上水道敷設騒動略誌」などを参考に書かせてもらった)。

4.むすび
 「今村史」は、上水道に関する記事の最後を次のように結んでいる。
「毎年必ず発生していた伝染病患者は上水道敷設以来殆ど其の影を見ぬ。之は正しく上水道のお陰であって二十年後の今日その有難さがしみじみ感ぜられると同時に、上水道敷設に尽力して下さった郷土の先輩に心から感謝しなければならぬ。」と…。

 信念の人、長瀬芳太郎村長は当時66歳、勤続20年。昭和7年1月上水道着工で任務終われりとしてか、任期満了直前に退任しておられる。
 当時の岡山市長も上水道問題で議会から辞職勧告まで出されたが、議会の場で「懸案通過の上は、お約束どおり市長の椅子を去ります」と明治35年4月いさぎよく辞任している。上水道敷設事業は、市でも村でも当時としては執行者が職責をかけた大事業であり、且つ難事業だったことがわかる。

 申し添えておくと長瀬村長が大字田中在住の方であったこともあろうが、この上水道建設反対運動に田中の村民は参加していないし、医師の原正雄先生(原一郎さんの祖父)は医師の立場で、また、水道委員であった和気政治さん(和気次男さんの祖父)も推進派として、共に陰に陽に長瀬村長を支援していたそうである(佐藤勲氏談)。

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