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今地区と周辺の農業用水の慣行

〔その16〕

平成5年4月号 第26号 中尾佐之吉

1.はじめに
 今地区とその周辺-昔の御野郡(みのごおり)は、岡山平野の中にあって水利に恵まれ、肥沃な耕地は米作に適し岡山藩の穀倉であった。稲作に水は欠かせない。水源は旭川であるが、この水を川上・川下共に公平に配分しなければならない。川上の農民が強い権利を持ち、川下は余水を恵まれるのでは、川下の農民は頭が上がらない。ただし、そうは言っても、このような形が通例であろう。
 しかし、この地方は違う。水の権利は平等でなれければならないと、特異の水利慣行がつくられた。真偽のほどは知らないが、私が父から聞いた話だとこのような水利慣行は、かの熊澤蕃山の配慮であったという。
 そこで、この地区の水利の「しきたり」の概要を次に述べることにする。ただし、私は用水関係の実務にたずさわったこともなく、不明のことが多いので、用水関係の経験者の方から指導していただいたことを感謝をこめて申し添えておく。

2.田植えは、川下(平田・田中野田)から
 右の表は平成4年度の関番割である。田植え時期(当地区では最近、直播栽培が多くなったので田植えはあまり見られないが)この期日と時刻にそれぞれの樋門が締め切られるのである。
 この場合用水路の末端の樋門がまず締められ、順次、上流の樋門に移っていくことが示されている。樋門が閉じられると用水路の水位が上がり、自然に田に水が入り田植えができるというわけである。したがって、田植えは、川下から始まって上流の地区へと進んでいくのである。
 田植えは「川上から川下へ」と進むのが一般であるのに、この地区は逆なのである。特異慣行という所以である。

平成4年度 今・芳田・大野地区 用水関番割

3.田植え後の用水の管理は、幹線用水路樋門の調節で
 右表の関番(せきばん)割を見ていただきたい。左欄に野田・大供・辻とあるのは、今・大野地区関係の幹線用水路にかかる樋門の場所を示しており、期日は樋門の締められる日程である(ただし、樋門が締められる時間帯は、期日の前日17時から当日の12時までである)。
 
 この期日以外の日は開樋されていて、5日間のうち2日くらいの割合いで上流から末端まで直に水が通されて、「川上はたっぷり水があるが、川下は水が無くて困っている」ということの絶対ないように配慮されているのである。
 土用・出穂期等の水の管理は別に実施されている。また、大雨等非常の場合は、臨機に取り扱われる。

平成4年度 用水関番割

4.越地(こじ)ついて
 用水路に直接沿わないで、田越しに水を受けねばならない田んぼも多かった。このような田を「越地がかり」というが、隣地から田越しに水を受ける権利も守られていた。現在は区画整理で道路の側溝から水が入るので「越地がかり」は大方なくなった。

5.川下耕作者の義務
 用水を末端の水田まで平等に受けられる権利が守られる代わりに、川下耕作者は義務も負わされていた。
 用水路保全のための労力奉仕で、田植え前の5月に市内の西川まで「川さらえ(川堀り)」「藻(もく)引き」と呼ばれる作業を行っている。

藻引き(1980年頃)中尾佐之吉撮影

6.樋守り
 水は命の次に大切なもので、稲作農業にとって水は命。その命の水を操るのが樋門の番人「樋守り」である。昔から樋守りの権限は強かったと思われるが、苦労も多かったに違いない。最近は後述のように時代も変わり、責任ばかり負わされる樋守りにはなりてが無いのではないかと思われる。永年樋守りをなさっておられる方には、いろいろの思い出をお持ちであろうと推察する。

7.余話
(1)干ばつの思い出
 旭川水系に包含される当地区は、豊富な水に恵まれていて、水不足などということは殆ど無かったといってよかろう。私がこどもの頃、一度だけ笹ヶ瀬川に設けられている大手の「田中水門」の入口にたくさんの土俵が詰め込まれていて、何も分からない私はこども心に異様な感じを受けたことを覚えている。今村史によると、大正13年に大干ばつがあったと記されているので、その時のことであったかと思い出している。

(2)都市化の進む中で
 近年は旭川上流に大きなダムが建設され、豊富な水量に恵まれて水の心配は全く無いし、区画整理で用水路も三方コンクリ-トに改善された。さらに都市化の進展も著しく、広大な水田も少なくなってきた。そして、用水としての水への関心も低下しつつあるのではないかと思われる。むしろ、大雨の場合の浸水や排水のことの方がより大きな関心事になっているようで、時代の変化を痛感するのである。

大元ー辰巳線ができる前
大元ー辰巳線(1991年3月29日)
中尾佐之吉撮影
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