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昔、学校はなくとも勉強はしていた

〔その31〕

平成9年1月号 第41号 中尾佐之吉

1.文字が分からなくては暦が読めない
 暦は、江戸時代後半で100万部も出版されていたとある本に書かれている(注1)。当時、およそ一家に一部の割合で、暦が重要視され読まれていたことになる。
 その頃は現在の太陽暦でなく太陰暦であったが、季節的社会的行事(例:正月、春分、彼岸、冬至、節分、社日、土用)や日の吉凶ばかりでなく、人々の運勢までも分かるという庶民にとっては無くてはならない生活指針の役割をもっていたに違いない。

注1 女子美大教授、暦の会会長岡田芳朗著「暦と運勢がわかる本」のことである。この本に天保時代の暦の一部分を撮った写真が載っていたが、当時は木版刷りで文字も漢字は行書体、ひら仮名はみみずがはったような変体仮名であるから、私らには大変読みにくい。昔の人はこれが当たり前として字を習っていたのであろうから、そうも思わなかったのだろうか。文字より暦をどう理解するかがもっと重要だが、ここでは触れない。

 字を知らねば暦も読めない。また、読み書きができなければ商売も営めない。百姓でも商取引に参加する時勢となってきているはずだ(注2)。今のように学校のない時代、どのようにして勉強していたのだろうか。そして国民はどの程度、文字を知っていたのだろうか。参考書をあれこれ探して読んでみた。

注2 福沢諭吉の「福翁自伝」で、安政2年、下関から大阪へ船で行くについて、中津の鉄屋惣兵衛から下関の船場屋寿久右衛門あてのニセ手紙を書いて“賄代の後払い”を認めてもらっている。このことは、諭吉が旅費の不足で苦肉の策をとったことの証明であるが、ここでは双方の商人が字が読めたり書いたりできることの説明であるとともに、読み書きの能力がなければ商売も出来ないということの証しの一例として取り上げてみた。

 また、早島町では今から290年くらい前の宝永年間に、裏作として藺草(いぐさ)が盛んに栽培されていたそうだから(同町歴史資料館の資料による)、この地方でも同じ頃、藺草が栽培され畳表も織られたことと思う。そして当然に、藺製品の売買も行われたであろう。したがって、農民でも計算ができなければならず、字も書いたり読めたりする必要があったに違いない。

2.江戸時代の識字率は?
  ロシアの海軍少佐ゴロヴニンはその著「日本幽囚記」(1816年版)で、「日本には読み書きの出来ない人間は一人もいない」とベタ褒めしているが、これはチョット過大評価と言わざるを得ない(注3)。
 司馬遼太郎氏は「江戸末期の識字率は70%以上で同時代の世界で比類がない」と書かれている(同氏著「風塵抄」)。だが、元駐日大使のライシャワーさんは「江戸の日本の識字率は男子45%女子15%で、当時の欧米先進国とあまり違わない」と同氏著「ザ・ジャパニーズ」に書いておられる。
 しかし、いずれが正しいかはここで詮議しょうと思わない。当時のわが国の教育水準が高く、国民がよく勉強していたことが分かればよい。とはいえ、私の知りたいのはこの地区のことである。

注3 ゴロヴニンさんは1811年国後島で捕らえられ26ヶ月余り日本に抑留された後、釈放されたロシア軍人であるが、この短い期間でよくも日本の事情を知悉し得たものと感心する。この本(幽囚記)で日本人の識字率について述べた後、さらにロシア人のことに触れ「ロシアには学者も大勢いる。しかし、天文学者一人について3つの数も読みこなせない人間が千人もいる」と嘆いている。天文学者が何人いるのかが不明なので、数の分からない者の人口割合も計算できないが、ゴロヴニンさんも計算に強い日本人に接してつい愚痴が出たのであろう。

3.この地区で学校のない頃、勉強はどこで?
 明治維新となって新政府は、「邑に不学の戸なく、家に不学の人なかしめん事を期す」として明治5年に学制が定められた。だからといって全国に小学校が直ちに設立されたわけではない。今地区でも明治6年からとりあえず辰巳村や中仙道村での私塾を学校としたようで、独立の校舎を持つ小学校(4年制)は、「順則小学校」の校名で明治9年辰巳村に設置されたのが初めてである。

 以上は前置きで、主題の学校のなかった明治4年以前のことを書かねばならない。このことを知りたいと「岡山市史(S43年刊)」を見ると市内に開設されていた「寺子屋」の記事がある。そして、今地区でも寺子屋があったことを初めて知った。さらに田中野田の原房五郎さんが塾を開き、教師をされていたことも(寺子屋と言ってもこの場合は、主として読み書きを教える私塾で教室は大体、本人の住宅や納屋であった)。

【追記】下表で見ると長瀬浪次は20歳で、原房五郎は19歳で塾を始めておられる。明治維新の大改革に際会し、若い情熱と次代を担う少年の教育に注がんと、希望に燃えての決意の表れであろうと想像する。浪次青年や房五郎青年がどこで勉強されたのであろうか、知りたいが今では不可能。多分、岡山城下町の漢学塾だろうと推察するのみである(当時、市中の漢学塾は40カ所くらいであったようだー岡山市史より)。

注4

注4 当時の今地区の人口は分からないが、仮に明治12年の人口(今村史所載のものに一部推定を含む)に、今村の大正12年年齢別人口構成から割り出した6-9歳の推定人口比率8%を乗じて得た要就学人口は162人となる。この数と当時の今地区の寺子屋の就学者数男116人、女58人、合計174人という数字とを単純に比較はできないが、想像より多くの人が勉強していたのに驚かされる。

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