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いずこも同じ、明治生まれの農家主婦あわれ

〔その39〕

平成11年1月号 第49号 中尾佐之吉

1.東京府下の農家主婦で、東京を一生見ずに終わった者もあったという
 徳富健次郎の「みみずのたわごと」につぎのような記事がある。
 「此辺の女は大抵留守ばかりしていて、唯三里の東京を一生見ずに死ぬ者もある。」
 記事の「このあたり」とは、明治の終わりごろ健次郎が住んでいた東京郊外北多摩郡千歳村字粕谷である(現在は東京都世田谷区になっていると思う)。
 ずっと昔、自分の生まれた村の中で一生を終える人も多かったとは、ものの本にも書かれている。明治も終わり頃だったら交通機関もかなり発達している時期だろうに、なお、このような状態であったことが知られる。
参考:この時期、岡山では山陽線はもちろん中国鉄道津山線も開通していたし、宇野線も明治43年に完成している。

2.この地方の農家主婦とて、その事情は千歳村主婦と大差なかった
 明治31年生まれの私の母親も農家のわが家に嫁ついできて私をはじめ4人の子持ちになったから、家事のこともあって自由に出歩けるものではない。とくに農繁期ともなれば当然であったろう。
 私が小学校低学年の時、後楽園へ遠足に一緒についてきてくれた以外は、自分の里(岡山市川入)へたまに行くのがせいいっぱい。子供が大きくなっても行動範囲は限られていた。特に、物見遊山などで旅行をしたことを私は知らない。この点、私の母だけでなく近所の農家の主婦たちも大差はなかったのではなかろうか。

3.主人は主婦より行動範囲は広かったが、それでも自由ではなかった 
 この地方の農家では当時、大抵、農耕用の牛を飼っていた。田植えを終えてから秋の取り入れまでの牛耕の必要のない時期は牛を手放すが、その他の時期、1年の3分の2くらいの期間は牛と同居である。しかも、この牛の飼育には男手が絶対必要であるから、その間、主人は一日たりとも家を空けることができない。
 さらにこの地方では「い草」が栽培されていて7・8月中はこの取り入れなどで休む暇は得られないから、たまに旅行に出られるのは1年の内9月と10月の2カ月くらいのものである。
 それでも私の父親は、この地区の仲間の者と東は京・大阪・お伊勢さま、西は日本三景の宮島くらいは行っているらしい。また慰労に湯郷・城崎・別府の温泉を訪れている。だから、母親よりはましだったといってもよかろう。

4.今は海外旅行もめずらしくない
 現在、この地方は土地区画整理により都市計画道路が縦横に張りめぐらされ、都市化が急速に進んでいる。広大であった田園地帯の面影はすっかりなくなり、残された農地が街並みの間にわずかに見られるといった有様だ。又、専業農家はほとんどなく、片手間的農作業も機械化されて短期間に作付けも取り入れも終わってしまう。勤めをもつ人でも自分の持てる余暇時間を有効に使えるし、主婦も子育ての期間はともかく、ゆとり時間をもてる時代になった。そして、交通機関は発達するし道路網は整備される。さらには旅行業者の手厚いサービスで、国内はもとより外国へも気軽に旅行できるようになった。男も女も、若い者も年寄りもである。
 私は常々思う。亡くなった親たちへ大きく変貌したこの地方の姿を一度見てもらいたいものだと。そして、上述のような事情も聞いてもらいたいと。はかない思いだが…。

 写真は町内3組の和気邦朗・美代子さんご夫妻が最近オーストラリアへ旅行され、シドニー にて写されたもの。海外旅行がこんなに身近なものかと実感されたので掲上させてもらった。※1998年11月撮影

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