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故虫明松次郎さんの足跡をたずねて(その1)

教育者にして政治家 - 中仙道の人

〔その35〕

平成10年1月号 第45号 中尾佐之吉

(その1) 頌徳碑は語る
 旧今村に頌徳碑が三基建っている。その内の一つ「大森喜一」さんの頌徳碑についてはすでに書かせてもらったので、今回は白鬚宮境内に建てられている「虫明松次郎」さんの頌徳碑について書かせてもらおうと思う。

虫明松次郎さん

 虫明松次郎さんは田中野田から北東隣りの中仙道の方で、文久元年(1861年)12月の生まれ、昭和15年(1940年)5月に亡くなられておられる。松次郎さんは近くの人だから、大正生まれの私もお目にかかったことはあるはずのように思えるが記憶にないのである。
 松次郎さんの事跡はつぎの碑文によって知ることができると思うが、親戚の虫明弘さんから松次郎さんが青少年時代だった頃の修学の履歴書等を見せていただき、明治初年当時の学制や学習施設などもわかってよい勉強になったので、それらのことにも触れようと思う。

まずは碑文について見よう。頌徳碑に掲げている文章は左に掲げているとおりであるが、漢文なので、私なりに次のように現代文に意訳してみた。

 虫明君、通称松次郎さんは岡山県御津郡今村中仙道の人である。天資剛直で言われることは信頼でき、事を為せば必ず成果をあげられる。艱難なるが故に常に中途で放棄されるようなことはなかった。
 明治15年師範学校を卒業され郷里の学校に数か月勤務、招かれて御野中学校助教諭となり、ついで御野高等小学校及び高松農学校を歴任されて功績を上げられた(註1)。
 退職後、御野堰埭(御野井堰)及び埭水所(貯水所)の監督(用水組合理事)となられ、田園4千余町歩に係わる用水の調整をはかられた。
 君(きみ)は郡会議員に選任され、また、県会議員に選ばれては参事会員となる(註2)。頗る機微に通じ多大の貢献をなす。
 大正11年郡制廃止となるや郡道移管に力を尽くす(註3)。
 大正15年聖上のおぼしめしにより、皇太子殿下(のちの昭和天皇)が郡内を行啓されたが、その際、郷里のために実行要項5か条の記念事業を実施して教化の成果をあげた(註4)。
 昭和2年、道路・橋梁が開通して村民はその恵沢をうけた。
 昭和3年、今上天皇即位御大典の記念事業として納税貯蓄組合を設立し公私ともに受益する。およそ、住民の幸福に関することには指導奔走大いにこれ勉められた。ここにおいて郷里の人たちは一人として虫明君をほめたたえない者はなかった。
 近ごろになって郷土の人々、碑を建て永くその徳をたたえたいと私に碑文を求められた。私は虫明君との交友浅からずよってこの文を書いた。昭和8年3月 森谷敬之 書
虫明松次郎さん 頌徳碑

註1 最初の勤務先は、児島郡甲浦小学校(今村史には吉備郡庭瀬小学校とあるが)で、隣村、大野小学校の校長もされている。
註2 大正8年、県会議員になっておられる。当時の議員定数は御津郡が2人であった。また、選挙権のある者は、当時、25歳以上の男子で、国税(地租)3円以上を納めている者に限られていたから、有権者は地主で概ね一家の主人ということになっていたはずだ。
註3 当時の郡道を県道に移管することに尽力されたわけだが、県道となった道路は中仙道―米倉線である。この路線の詳しい説明は省略するが、田中野田町内では現在のバス通りがその一部である(今の人には、あのバス通りが“県道?”と思われるかもしれないが)。
註4 記念事業の内容は、今となってはよくわからない。
(松次郎さんの「修学の履歴」は次号で)

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