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広島原爆被爆体験について

2022/07/18

カテゴリー: 体験談・記録

7組 太田啓一 91歳

投稿者:高塚由利子(7組)
 私の父は昭和20年(1945年)8月6日、原子爆弾投下により広島駅で被爆しました。その時の様子を私が初めて尋ねたのは15年ほど前でした。それまで被爆者というのは知っていましたが、聞くことにためらいがあり、また、父からも話すことはありませんでした。
 ある時、私にちょっとした出来事があって「お父さんが広島で原爆に遭った時、どんなんじゃったん?」と言葉がするりと出ていました。父も聞いてくれてうれしかったのか、淡々と話してくれました。私は話を聞いた後、涙をこらえ「話してくれてありがとう」と伝えました。父は被爆体験の手記があることを教えてくれ、御礼にパソコンで打ち直し、印刷して父に渡しました。

 また、当時、呉市清水通國民学校第17学級で庭田雄二氏と同じ学級だったこと。雄二氏のお父様は、庭田尚三氏(旧日本海軍技中将)で、戦艦大和の設計、建造責任者だったことから庭田氏の存在が身近に感じられ、当時の呉の様子までも話してくれました。その後、父母と共に広島~呉を訪ねる日帰りドライブが実現しました。

今年で77年目を迎える広島原爆の日が近づき、以下に父の体験談をご紹介させていただきます。

 広島駅一番ホームに呉線経由小郡行きが到着した。乗降者による混雑も落ち着き、私と同級生米田君は、一番ホームとは反対側の昇降口のステップに腰を下ろし、米田君持参のトマトを食べようとした瞬間、あのフラッシュ撮影を思わせる強烈な閃光が走ると同時に、一・二番ホームの鉄柱に支えられていた長い屋根がまるで飴の如く倒壊するのが見えた。
 気がついたら一番ホーム上に飛ばされたのであろうか、辺りは煤塵によるものか暗闇の状態で、落下物で危険な中、幸い米田君と共に雑踏の中を潜り抜けた。ようやく車内に入り、シートの下に両手で目・耳を塞ぎ身を伏せ、次の敵機の来襲に備えた。
 長い長い時間に感じられたが、にわかに二人で北方の二葉山方面に逃走を試みた。駅構内のいくつもの線路、ホームを越え構外に出て初めて我に返り、空襲の異常さに気付いた。それは無数の雀、鳥等が落死していたからです。
 二人で急遽、広島駅へと引き返した。そこに見たのは駅舎の倒壊であり、周辺は正にこの世の生き地獄の様相を呈していた。改札口は倒れ、無数の切符、定期券、手荷物等の散乱、駅舎のコンクリートが瓦礫の下敷きになっている多くの人々…既に息絶えているのであろうか。駅前には多数の怪我人が右往左往、全身は黒くシャツは破れ、被爆による火傷か負傷か識別できない。暑さと驚きのあまり意識もうろうとなりながらも、二人は励ましあいながら横川方面に向かったが、既に出火が始まり、その勢いは次第に激しくなってきて、やむなく再び駅前に戻った。私と同村の他校通学生二人を偶然、見つけたが、上半身に火傷を負っていた。互いに手を携え、時には米田君と背負ったりして、四名はとぼとぼと帰路に着いた。苦しむ二人に不見識ながら、町工場の機械油を塗ってあげたりもした。
 向洋(むかいなだ)近くになり、ふと振り返れば広島市上空にはあの不気味なきのこ雲が出来、その周囲から細い滝の如く降り注ぐ様形は「黒い雨」か?辺りもうす暗くなりポツリポツリと雨が落ちて来た。
 

 国道は被爆者を満載したトラックがひっきりなしで過ぎ去って行く。海田付近で親切にも満載状態のトラックが止まってくれ、負傷者を押し込み、何とか乗車させてもらった。呉方面に向かう海岸線にある幾つかの集落の拠点で、安否を気遣う在郷軍人会や国防婦人会の人々の担架や腕に助けられ、三人、五人と降りて行きました。私たちも天応町大屋橋にて前述同様、温かく救助されました。
 国民学校舎は病院となり、診察の結果、私は背中部分のガラス破片数個を除去する程度の軽傷でしたが、二人の火傷はかなりの重症の様でした。講堂(仮病院)は被爆者とその家族で次第に満員になって来ました(午後三時か、四時頃だったと思う)。
 生きて戻ってきた私を見つけた母は涙を流し、爆風に吹き付けられた煤塵で黒くなった私の顔を見つめながら、やさしい手で何度も何度も煤を拭き取ってくれるのでした。ピリピリと痛む顔には、とめどもない喜びとはつかない涙が。
 翌朝の講堂内病院は、次々と息を引き取って行くのか、あちらこちらに悲しみの集まりが見られ、あたり一面嗚咽の声で満ちていました。
 さて、私はこれより村の人々と手分けで漁船にて行方不明被爆者の救助活動が数日に渡り始まるのですが、その苦しさ悲しさは到底、筆舌に表し難く、拙文ですが次回に述べさせて頂きます。ここに改めて原爆犠牲者の御冥福を御祈り致します。

注)当時、私は広島県安芸郡大屋村天応(塩谷)に在住し、広島市内の崇徳中学校二学年在学中、学徒動員令にて学校近くの水田砥石工場に配属され、米田卓司君と共に呉線にて通勤していました。米田卓司君、当時、呉市空襲により焼山に移住。安否如何。平成7年11月26日 記

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