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昔、火薬庫があった話

2022/07/13

カテゴリー: 体験談・記録

2組 和気 茂さん(前会長)の話が公民館だよりに掲載されていますのでご紹介します。
御南西公民館だより180号(今月号)
御南西公民館 シリーズ後世に伝えたい にし★みなん 今とむかし12 リレートーク⑤ より転載

『火薬庫』があった。我が地域に!

 平和を揺るがすロシア侵攻によるウクライナとの間で戦争が続いている。戦争には砲弾等に多くの「火薬・弾薬」が使われていることから、私が子供の頃、田んぼの中に不気味で鬱そうな姿の火薬庫(当時、煙硝蔵と言われていた)が存在していたことを思い出します。
 いつの頃、こんなものができたのか?
 この火薬庫があった場所は、田んぼ以外には何もない辰巳地区の北の外れにポツンと存在していた。近くの民家までの距離は、当時の記憶によるものであるが、北は中仙道まで400m位、東は今村まで500m位、西は田中まで500m位、南は一番近く、辰巳まで150m位だったような気がする。
 この「火薬庫」の思い出・印象について、今年90歳になられる田中にお住まいの長瀬日出明さんにお聴きした。当時、長瀬さんが通う今小学校への下校時「前を通るが怖うて、いつも走って通過していた。もちろん、中へ入ったことはない。」祖母からは「子とり(人さらい)が出るから気を付けにゃーいけん」と言われていた(昭和14年~19年頃)。また、戦時中であったが火薬庫を管理していた人の気配もなく、火薬類もすでに取り除かれていたようだとも言われていました。
 同じく、田中から今小学校へ登下校していた難波一夫さんからは「一人で帰る時は、辰巳の村中を帰っていた。そりゃあ怖かった」との返事であった。
 さらに当時、上中野から御南中学校までを自転車通学していた70歳代の女性によると、うっそうとした小高い山があり、周りが田んぼばかりで気持ち悪く、平田から下中野経由で帰っていたとのことでした。
 ところで、私なりに火薬庫の中の様子について記憶を辿ってみると、道路から北へ3m位の橋を渡り、直ぐ東へ向くと「火薬庫」と彫り込まれたコンクリート板の門があった。この門を入ると北に向かって15m位の通路があり、左側手前から1号・2号・3号と三つの火薬庫があった。もちろん、火薬らしきものは一切残っていない。1号庫のみ「第1火薬庫」と書かれた、傷みが進んでいる横板らしきものが存在していたのを覚えている。周りは草、木々が覆い茂っていた。
 私事ですが、昭和37年~38年(高2・3年)頃、校友3名と火薬庫の中で炭コンロで焼肉をしたことが思い出されます。



 昭和41年からの辰巳卸センター着工・完成に併せ、小高く盛り上がった火薬庫は姿を消した。火薬庫の入り口付近に「センダンの木」が高くそびえており、白い実をつけていた。この時の「センダンの木」の残像が現在も卸センターの片隅に隆々と元気に残っている。どうかいつまでも、この雄姿を見せ続けて欲しいと願っている。
※卸センター:現在の問屋町。昭和43年の団地完成以降、総合卸団地として発展。平成12年に組合の定款を変更し、卸売業以外の受け入れを可能に。現在ではあらゆる業種の店舗や事務所、マンション等が混在し、新たな商業スポットとして賑わい、全国からも注目される街となっている(卸センターHPより)

現在の問屋町に残るセンダンの木
昭和30年発行「今村史」より

今村史「火薬庫跡」の掲載文
 今村から田中へ行く途中に上図のような所がある。これは元の火薬庫で現在はその面影を止めているに過ぎない。
 大正3年3月28日岡山市のゼニヤス商会の作ったもので、中に3種の火薬庫があったが、今はほとんど壊れている。

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