「とんど」と「とんどまち」
〔その15〕
平成5年1月号 第25号 中尾佐之吉
「とんど」という言葉は広辞苑によると、小正月(1月15日)に門松・竹・注連縄(しめなわ)などを集めて焚く習俗であると書かれている(注1)。この地方でも勿論この風習はあったが、一般にたき火をすることも「とんど」と言っていた(注2)。
私の家の前の田んぼは、通称「とんどまち」と言われていた(注3)。「まち」は漢字で書くと「町」であろう。「町」はいろいろの意味を持つが、ここでは田んぼの区画の単位という意味に解釈すべきと思われる。
(例)「田植えが済みましたかなぁ」「まだ”ふたまち”も残っとんです」と言う場合、田んぼ2枚という意味の「まち」。
従って「とんどまち」とは「とんど」をする(一枚の)田んぼと言うことである。
注1 「とんど」という言葉は、一般には「どんど」と言われいているようである。
注2 私がこどもの頃は、まだ、盆・正月等は旧暦を使っていた。農作業の都合もあり、当時はやむを得なかった。 なお、この地方では小正月とは2月1日であるが一般的でないようである。
注3 「とんどまち」の公称地名は「前場(まえば)」。人に名前があるように土地にも公につけられた名前がある。
なぜ「とんどまち」という名前がついたかというと、その田んぼの東南の隅、今の「田中野田バス停」附近の一画が、昔は高田で稲も作れず空地だった。正月には村の人が「お飾り」を持ちよって焚いたり、寒い日には付近の人が寄って「とんど」をしていたそうで、何時とはなしに「とんどまち」といわれるようになったと聞いている。
私がこどもの時には、ここはもう水田になっていて「とんど」はできなくなっていたが、その名前だけは残っていた。当時、怖い上級生の命令で「とんどまちを一周してこい」と、この田んぼの周りをよく走らされたものである。今は「とんどまち」の名前を知っている人は少なくなってしまった。区画整理が完了すればこの地名もなくなる。
ついでに「とんど」に関連して少し書かせてもらう。私がこどもの頃、農繁期の終わった冬の間、大人の男たちは藁(わら)細工に精をだしていた。「わらじ」や「ぞうり」も作られたが、主としては米の俵つくりである。縄をない、菰(こも)を編むのである。
こんな時、個々の家でなく私の家の納屋などに何人かが集まって、雑談しながら楽しく作業していた。寒い朝などは藁仕事で出てきたわら屑で「とんど」をして暖をとっていた。
その頃「とんど」にしても何でも自由に燃やせたわけではない。稲藁でも籾殻でも、炊事や風呂焚きの貴重な燃料だったからである。それでも足りなくて、笹ヶ瀬川の葦をも焚物にしていた。また、川を流れる木切れ一つも拾い上げて燃料の足しにしたのである。
昔から、し尿も肥やし(肥料)にしていたくらいだから、家の周囲、家の中、身の回りのもので「役に立たない」と廃棄するものは何一つなかったと言ってよい。
古い家を解体し新築する場合、昔なら木材はとっておいて燃料にしたりしていたが、電気・ガスの普及した現在ではそのような気遣いは無く、すぐ取り壊して廃棄してしまう。我が家がそうであった。古い家の材木を取っておいたら10年くらいは燃料に使えたかも。
最近は「非常事態宣言」が出るほど集積場はゴミの山である。冥途とやらへ連絡が取れるものなら、この有様をご先祖様へ知らせてやりたいものと思う。どう言われるであろうか?「もったいないことをしとる」ときついお叱りをうけるに違いない。と言っても軽くは聞き流せない。半世紀もすれば原油も枯渇する。諸事節約の時代が再来するかもしれない。
「とんど」が、つい横道にそれてしまった。お許しを。