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戦前、正月行事は旧暦だった

〔その19〕

平成6年1月号 第29号 中尾佐之吉

 明治になってから太陽暦になっているのになぜ、と不審に思われる方はこの記事を読んでいただきたい。
 私がこどもの頃(今から70年前くらい前)、当時、田園地帯であったこの地方は稲作が主体だったが、裏作として「い草」の栽培も盛んであった(注1)。い草は12月から1月にかけての真冬に植え付けをする。稲の刈り取りの終わった田んぼを耕起し「代かき」をして氷の張った冷たい水の中でも素手で植えるのであるから大変な作業であった。寒さの厳しいときは、時々「とんど」をして暖をとらなければならなかった。植え付けるい草はそれまでに夜業して株分け(「い苗かぎ」と言っていた)するのである。親たちは疲れた体にむちうって昼間の作業をしていたのであるから、過酷な労働であったと思う。

真冬のい草の植え付け風景(和気督祐さん提供)

注1 当時、私の家では田んぼの半分くらい「い草」を植えていた。今村史に見られる統計では、昭和9年として次のような数字が記載されている。水稲作付反別379.5町歩、い草作付反別144.9町歩
つまり、い草は田んぼの4割りくらいに植えられていたことになる。また、当時、岡山県は全国のい草作付反別の半分近くを占め全国一であったが、現在では北九州地方が主流である。かつてい草王国を誇っていた当地方にもはや、い草は全く見られない。


 親たちがそうであるから、こどもたちも応分に働かされた。稲の取り入れ時には、学校から帰ると籾の「むしろ干」の取り込みや家の中の仕事をした。家で勉強をするなどということはなかった。親も「勉強する間があれば仕事をせい」(この頃とまるで反対)であった。
 学校が正月休みに入ると、い苗の掘取り、株分けの手伝いなど夜業もさせられた。正月はちょうど農繁期の最中であったから、どこの家も正月のお祝いや正月休みはできなかった。
 しかし、正月の祝賀をしないのでは習俗に反するので、大体1か月遅れで行われる旧正月で祝った。明治になってから暦は太陽暦に変わったのだが、この地方の農家は、戦争でい草が作れないようになるまで、昔どおり太陰暦を併用していたことになる。


 ところで、旧正月であろうがともかく正月に、当時のこどもたちは何をして楽しんだのかと問われると返答に困ってしまう。当然、旧正月では学校は休みでなかったが、当時はテレビもなければラジオもないし、ファミコンやビデオ等は思いもよらない(注2)。
 室内の遊びはせいぜい「双六(すごろく)」か「カルタ取り」くらいのもの、屋外では男の子は「たこあげ」か、これも面倒だから「パッチン」などをして遊んだかなぁ…。今は車社会、こどもにやさしい親たちに自家用車で方々へ連れ出してもらえる。
 そして、つけ加えたいのが「お年玉」。私はお年玉などもらったことがない。この頃のこどもは、お年玉を貰うのは当たり前。お年寄りは年金が貰え貯金もできて、おじいちゃん・おばあちゃんは孫へお年玉をやることを楽しみにしているとか。何もかも結構なことと言いたい。世の中も変わったものだ。


注2 わが家でラジオを買ったのは昭和16年(岡山放送局は昭和6年開局)松下電気産業の4球真空管付きラジオセットで値段が75円、当時の私の月給の1.5倍であった。
米の価格で換算すると(当時は米1俵16円50銭)今の値段で9万円くらい、カラ-テレビ並であったわけで、米の値段に比べて工業製品がきわめて高価であったことがうかがえる(私は親を驚かせてはいけないと、このラジオの価額は明かさなかった)。なお、テレビは昭和32年に14インチ白黒テレビを初めて買っている。値段は忘れた。

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