田中野田水門・「渡し場」と「せんだん」の樹
〔その14〕
平成4年10月号 第24号 中尾佐之吉
■田中水門のこと
田中野田の区画整理事業で「御南中」北の古い方の田中水門が平成2年全面的に改築された。
新しい水門は鉄筋コンクリ-ト造りで、間口も4.2mと以前より2倍以上大きくなった。
また、門扉の開閉も電動式で全て近代化されたわけである。しかし、ここで改築される前の古い田中水門についてふれ、考えてみることにする。
この古い水門も、明治45年に改築されている。そして、水門の大きさは、間口1.4m・高さ1.2m・奥行き12mであり、基礎には3mくらいの松杭が打たれていたそうであるが、構造部本体は、全て石造りであった。しかも、大きな石を使ってのことで、その量も護岸に用いられたものを除いた本体部分だけで60トン(米で1000俵くらい)以上と私は推定するのである。
←旧水門(バックは御南中学校校舎)
ところで、このような大量の石をどこからどのようにして運んだのであろうか。陸路の運搬では、当時の周辺の道路事情等を考えると不可能である。瀬戸内海諸島のどこかで切り出された花崗岩を、海から笹ヶ瀬川をさかのぼって運ばれたに違いなかろうと思う。
では、大きな石をどのようにして?
市役所の専門技術職の方の話ですと、戦前の例では右図のように2艘の小舟の間に石を水中に吊るし(石も軽くなる)、上潮を利用して(当時は笹が瀬川も潮の干満があった)運び、引き潮に現場の浅瀬に沈着さす方法がとられていたそうである。
田中水門の工事の場合も、このような方法で石が運ばれたのではないだろうか。今のような重機のなかった当時の大事業、大変な作業であったろうと思う。
この水門の礎石の一つには、当時の人の名前が次のように刻まれていた。
波多野注左ヱ門
藤原源次
和気善次郎
岡田平左ヱ門
善次郎さんは土地の人で和気輝明さんの4代前にあたる方だが、その他の人の名前は知られていない。また役割もよく分からない。
■「センダンの樹」と「渡し場」
水門の出口の北、現在ごみ置場になっているところに、昔は大きな「せんだん」の樹があった。自然に生えたものか、特別に植えたものかよく分からない。私がこどもの頃、夏には、川辺りで緑陰のあるここが恰好の遊び場であった。
「センダンの樹」は昭和7年から始まった笹ヶ瀬川改修工事でなくなった。今、この附近では中銀問屋町支店の東北隅に植わっており、懐かしい思いをしている。
また、現在の田中水門付近には昔の「渡し場」があって、対岸の今保へはここから舟で往来した。舟の出入りが定期的にあったわけではなく、地元の人の依頼で臨時にその都度、白石末広さんの先代の方がサ-ビスで舟を出してくださっていた。私も子供の時、親類へ行くのに何回か利用させてもらった。
「渡し」の利用は、大正末頃からの自転車の普及に伴い自然に止んでしまった。戦後には御南中の西へ「通学橋」もできた。今でも土地の人が白石さん宅を「渡し場」と言う代名詞で呼んでいるのは往時の名残である。
付記
平成2年2月改築「田中水門」の概要
構 造:間口4.2m 高さ 1.9m 奥行 12m 鉄筋コンクリ-ト造り
総工費:2600万円