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「笹ヶ瀬川はかつて 汐入川であった」

〔その4〕

昭和63年4月号 第6号 中尾佐之吉

 田中野田地区の北西端から南東へ流れている笹ヶ瀬川を、私が子どもの頃は[しおがわ]と呼んでいた。当時は、笹ヶ瀬川の水が塩からいからそう呼ぶのだろうと考えていたが、実は「汐入川(しおいりがわ)」であることから「塩川(しおがわ)」と呼ばれていたのである。
 
 昭和33年、児島湾の入口が堤防で締め切られてからは笹ヶ瀬川に潮の干潮がなくなった。それまで満潮の時、堤防の外の水位は私たちの住む宅地より高くなっていたわけで、笹ヶ瀬川の堤防は洪水を防ぐ堤防であるとともに潮水が浸入しないように住宅地などを守る防潮提でもあったといえる。

笹ヶ瀬川・今保通学橋(昭和60年頃)中尾佐之吉撮影

 昭和10年頃、笹ヶ瀬川の河川改修工事がなされた。現在の御南中・技能開発センタ-(現在は、ポリテクセンタ-)・福祉センターの敷地となっているところを旧堤防沿いに流れていた水路が、現在の水流に変えられたのである。そして、葦で覆われていたところを水が流れるように掘ったその土砂で川を埋め立て、今の県公舎・烏城彫工作所・御南中学校・技能センタ-・岡山西養護学校・福祉センタ-の敷地となっている土地が生まれたのだ。

 笹ヶ瀬川は今では潮の干潮もなくなり、大雨の時以外は水位も低く安定している。海水が入り混じって塩からかった水も真水に変わった。いや、単に変わったということばでは済まされない大異変が川に起こった。汐入川であった当事にみられた魚介類の姿が消えたのである。
 それまでは近くの笹ヶ瀬川(しおがわ)でおいしい「シジミ貝」がたくさん獲れていたし、こどもの頃からお父さんとこの川で漁を楽しんでいた大森治代吉さんらの話によるとコイ・フナ・イナ・ボラ・ウナギ・ハゼ・アミ・シラサエビ・ママカリ・アシナメ・ツナシなどの他に、今では信じられないかも知れないが「シラウオ」もとれていたという。
 児島湾の淡水湖化によって笹ヶ瀬川はもう昔の姿に戻ることはないだろう。また、上流とその周辺地域の都市化によって多量に出る生活排水が川にもたらす川の汚濁のために、笹ヶ瀬川はもはや魚介の住めない死の川になってしまった。文明を進める近代化はわれわれがこれを追及すべき指標かもしれないが、そのために何かが失われ、貴重な何かを犠牲にしなければならないのであろうか。「しおがわ」を思う時、考えさせられることである。
 島根県宍道湖の淡水化がいま問題になっている。そして、その成り行きについて私は、人ごとのように思えないのである。

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