“笹ヶ瀬川廃川地”はこのようにして生まれた
〔その32〕
平成9年4月号 第42号 中尾佐之吉
敗戦の申し子とも言うべき「御南中学校」が創立50年を迎えるという。「ふれあい新聞」もこのことを記念して特輯号発行の企画とか。そして、その学校用地が笹ヶ瀬川の改修によって生まれた土地ということで、その事情を書くよう求められる。この川の改修のことについては、「大森喜一先生頌徳碑」(御南中学校庭の南東隅に建立)の記事を載せた際もふれたので重複する面もあるが、折角の機会であるので改めて書かせてもらうことにする。
この笹ヶ瀬川改修工事は、図(改修前後の比較図)に見られるように足守川の河口に位置するためか、笹ヶ瀬川がこの地方で今村側に大きく膨れ、澪すじも堤防に沿って今村側湾曲していて、出水の際はここに圧力が加わり堤防が常に危険に脅かされていた。
このことから澪すじを直線に掘り替え、もとの澪すじをその土砂で埋めればここに広大な干拓地ができ、一挙両得となるという発想で始められたわけだ。昭和7年のことである。
工事は内務省直活で行われた。最初は新堤防建設から始められるのであるが、この土砂は北部の花尻山からトロッコで運びこまれて来るのであるから当事としては大変であった。 また、瀬戸内海から児島湾を通り笹ヶ瀬川を遡って浚渫船が入ってきて、新しく澪すじとなるところを掘削し、その水と泥を一緒にパイプを通して旧堤防と新堤防の間へ吹き上げる(写真は当時のもの)。これによって今まで沼地であったところが新しい川筋(現在見られるとおりの)となり、新旧両堤防の間に新しい陸地が出来ていくのである。
ただし、出来上がった廃川陸地を直ちに何かに利用しようという計画はなかったらしく、しばらくは草茫々の荒野が原であった。その後、戦争が厳しくなると食料増産のかけ声に応じて“さつまいも”などを作る畑に変わるという経過をたどることになる。
戦後は一転する。学制改革で新制の中学校が各市町村に新設されることになると、その位置と学校用地は問題なくこの廃川地に決定した。
当時は種々の事情からこの中学校が今・芳田・白石・大野4か村の組合立となり通学範囲も広かったため、通学の便宜をはかる意味で笹ヶ瀬川に対岸の「今保」と往来できる通学橋(当時は木造)が架けられた。今保への橋が架かることは、昔から多年の念願でもあったわけであるから喜びも大きかったと思う。私が子供の頃の昔、旧田中水門には渡し場があって、今保へは川舟に乗せられて渡った思い出がある。
その後、この廃川地へ次々に施設が立地し、昭和31年には田中野田へ市内バスが通じるようになった。…往時を回顧すれば夢のようである。