呼び名への「さんづけ ちゃんづけ」
〔その33〕
平成9年7月号 第43号 中尾佐之吉
1.昔は“さん”づけ
私は大正6年(1917年)生まれである。こどもの頃には近所の人から「サアちゃん」と呼ばれていた。“ ちゃん”づけは子どもへの愛称であろう。それが大人になっても今のような年寄りになっても、相変わらず「サアちゃん」と呼ばれる。そして私も、最も身近な親しい人には孫のある年齢の人なのに○○ちゃんとためらわずに呼んでいる。習い性となったからだ。
ところで、私の子どもの時には近所のおじさん方は「タカさん」(高衛さん)、「スウさん」(須真雄さん)、「イワさん」(岩夫さん)、「ソウさん」(宗太さん)等と“さん”づけで呼ばれていて、同年輩の方からでも決して“ちゃん”づけで呼ばれることはなかった。だから“ちゃん”づけは、私の子どもの頃から始まったのではないかと思うのである。
2.親は子を呼び捨て
私の母の名は「美興」であるが、母の実母から「ミイ」と呼ばれていた。私の父は「良一」であるが、その父からは「リョオ」と呼ばれ、父の兄も同じく父親から「イチ」(市次という名だが)と呼び捨てだ。私も祖父や叔父(母の弟)からは「サアよ」と呼ばれていた。“ さん”も“ちゃん” も付かない。しかし、それが当たり前で目上の者が目下の者を呼ぶのに敬称をも意味する “さん”づけはおかしいわけだ(嫁さんは例外で、嫁家先では敬意を表して“さん”づけが普通だが)。
私が大人になる頃から自分の子どもでも○○ちゃんと呼ぶようになる。子どもも親を「おとうちゃん」「おかあちゃん」と“ちゃん”づけだ。そして年が寄れば、おじいちゃん・おばあちゃんになる。むかし話では「…おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ選択に…」であったが。
3.”ちゃん” づけはいつ頃から
そもそも、○○さんと呼ぶ “さん”は人名にそえる敬称の「さま」(様)のくだけた言い方だし、○○ちゃんなどと呼ぶ “ちゃん” は「お坊っちゃま」「お嬢ちゃま」という言い方から転化したものであろう。
島崎藤村の「生ひたちの記」によると、藤村が明治14年(1881年)9歳のとき上京して泰明小学校に転入し、そこでの知り合いの友達を「六ちゃん」と呼んでいる。したがって、東京の方ではもうその頃は“ちゃん”づけの言葉が使われていたわけだ。岡山のそれも田舎だったこの地方で○○ちゃんと子どもの名前を“ちゃん”づけで呼ぶようになったのは、ずっと遅れてのことだったことがわかる。
4.”ちゃん” づけで(父)親は怖くなくなる
私の子どもの頃の父親はまことに怖い存在であった。それは一家の柱としての責任が肩にかかっていたし、あらゆる面に気配りが必要で(私の父などは、娘の衣装の品定めにまで口出ししていた)。それだけに権威も持っていた。子どもは呼び捨てだし、よく叱られもした。父親は近所の子どもでも遠慮なく叱った。私の父ばかりでない、近所の小父さんも同様で、いたずらをする子ども、言うことを聞かない子どもは何処の家の子どもであろうとこっぴどく叱られたものである(最近は、他家の子どもを叱ろうものなら、反対にその親から抗議を受けるという話を聞くが)。
私が父親となる時代には自分の子どもも“ちゃん”づけで呼ぶのが当たり前になっている。平日は家にいないので、子どもは母親任せだから、父親の権威は地に落ちたも同然だ。子どもを叱るチャンスもないから、子どもにとって父親はただの人にすぎない。近所の子どもは知らぬ間に大きくなっていて、どこの家の子か名前も知らないという情けない有様だ。
最近は少子時代、子どもは宝となるわけだからますます可愛がられる。子どもは親の付属物ではなく一個の人格をもつもの、成人すると親の思惑は無視されて巣立ってしまう。親は全く哀れな存在になったというべきか。
5.使われなくなった“やん”づけ
私が小学校へ行っている頃、学校に吉田嘉平さん(徳島県生まれ)と言う用務員さんがおられた。この村の人は、この人を蔭では「カアやん」と呼ぶわけだ。”やん”づけは下男・下女を「じいや」「ばあや」(ねえや)と呼ぶ風習の、この「や」が「やん」になまったものであろう。だが、これは人を見下した言葉であった(註)。今では下男も下女も一般家庭では見られないし、家事手伝いのような方でもすべて“さん”づけで呼ばれている。地位や身分によって差別してはならないのだから当然であろう。
註 昔はどんな職種にも階級があり、その地位によって言葉の使い分けがあったようだ。江戸末期、日本の北辺で活躍した、かの「高田屋嘉兵衛(1769-1827)」も若い時、雇われ身分の時期は、「嘉アやん」と言われ、地位があがっても、なお、「嘉兵衛どん」だ。商人として独立し一家をなして初めて、同業者仲間から「さん」づけで呼ばれている。(司馬遼太郎作「菜の花の沖」の記事より)