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「大森喜一先生頌徳碑」にきく

〔その18〕

平成5年10月号 第28号 中尾佐之吉

 御南中学校校庭の東南の隅に、昭和32年に建てられた「大森喜一先生頌徳之碑(しょうとくのひ)」があるのは、皆さんもご存知のことと思う。しかし、その謂れ(いわれ)はとなるとどうであろうか。「大森先生」がどういう方か知らない人が多いのではなかろうか。もちろん、私も先生と面識があった訳ではなく、先生のことは石碑にきく以外に方法はないのである。
 幸い裏の碑文が語ってくれそうである。碑文は別掲のとおりであるが漢文調になっているので、私なりに現代風に次のとおり意訳してみた。双方を読んでいただければ幸いである。

大森喜一先生頌徳碑

碑文は全て旧漢字であるが、別掲は現代漢字を使った。(例)學=学 また、本文の終わりから2行目の「俤」の字は碑の文字が判然としないので推定である。


 大森喜一先生は、明治7年5月御野郡今村辰巳に生まれる(注1)。(小学校からさらに)岡山中学校に学び、卒業後今村小学校へ20年間奉職された(注2)。
 村内では慈父の如く敬仰される。後、関西中学校理事長をされ、また、今村産業組合を創設された(注3)。
 大正12年には県会議員に選ばれ、県政にも力を尽くされ、その功績は顕著であった。
 なかんずく、御津郡南部の発展には笹ヶ瀬川改修を実施するにありとし、幾多の困難を克服されて昭和7年着工、7年の歳月と百数十万円の費用を費やして、昭和13年その完成をみたのである(注4)。
 惜しいかな翌年6月、にわかに亡くなられた。享年65歳であった。先生は資性寛厚で公のためには私を顧みない、所謂「身を殺して仁を成す」の方でした(注5)。


注1 先生の出生当時は「御野郡辰巳村」で当地「田中村」の東隣である。
注2 「岡山中学校」は現「岡山朝日高校」の前身
注3 今村産業組合は、今村信用生産組合として大正9年設立された。そして先生が初代組合長になられた。
注4 笹ヶ瀬川改修工事は、国の施工で費用は115万円とか(今村史による)。現在の貨幣価値に直すと23億円くらいと言えようか。
注5 当時の県会議員は名誉職的存在、信用組合長も責任こそ重けれど無報酬的処遇ではなかったかと思える。先生は職務のために多額の資財を投ぜられたときく。


 今や御南地方面目一新、御南中学校・予防会病院・後保護指導所・県養鶏研究所・国立職業補導所等(注6)幾多の近代施設が美観を呈し、往年の干拓当時(注7)の姿と比べれば実に隔世の感あり、これ皆先生の達見の結晶なりと言うべきである。
 偉大なるかな先生の徳、先生逝去されて20年。ここにおいて先覚の恩恵をうけた者たちが相謀り、その面影を永久に伝えるため碑を建てようとの意向により、荒木清志君(注8)から友人を介して碑文の作成を求められた。私は、有志諸氏の美挙に感激し不文をも顧みず事蹟の梗概を叙して責を塞いだ次第である。


注6 現在、後保護指導所は岡山西養護学校に、養鶏研究所は岡山福祉の郷(県総合社会福祉センタ-)に、職業補導所はポリテクセンタ-(技能開発センタ-)に変わっている。
注7 上記諸施設は、笹ヶ瀬川改修工事によってできた干拓地に建設されたのであるが、それは戦後のことで改修工事が完成した頃の干拓地は草ぼうぼうの状態であった。
注8 荒木清志氏は今村出身で、当時株式会社荒木組(建設会社)の社長であった。

頌徳之碑の場所 +印

碑文と書の作者の万波憲治氏のことは、残念ながらよく分からない。 現在、今地区は都市化が進展し大きく変容してしまった。「隔世の感」を一層深くしながら先生の碑を仰ぐのみである。

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