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農業機械化の歩み

「千歯(千把)から「コンバイン」への道

〔その17〕

平成5年7月号 第27号 中尾佐之吉

1.郷土を驚かす「石油発動機」の快音
 田中野田で農業機械化の先駆者たる栄誉を受けられるべきは、和気岩夫さん(1894-1978)、和気督祐さんのご尊父である。
 私がこどもの頃(大正の末頃)、わが家の裏の岩夫さんの田んぼ(その時はい草が植えられていたが、現在は宅地)で、石油発動機のケタタマシイ爆発音と共にバ-チカルポンプから水が田んぼへどんどん入っていくのである。
 私が始めて見た機械だ。ビックリである。それまで水かきは足踏みの木製水車で、これが機械に肩替わりすることになった。この石油発動機を(たいこに爪を打った)回転式脱穀機にベルトで連結すると、稲こぎ(脱穀)も機械化されることになる。

回転式脱穀機(足踏み)

 当時、稲こぎは「千歯(せんば)」に稲を一握りづつ当てて引っ張り落とすやり方で、一反(1,000㎡)分の稲をこぐのに一週間くらいもかかったのが、数時間で済むようになるのだから、機械化は省力と能率向上に大変役立ったわけである。さらに籾摺りも機械化が可能になった(注1)。

注1:千歯は和泉高石の百姓が元禄(1688-1703)の頃の発明(宮本常一著「民間暦」による)。「足踏回転式脱穀機」が登場するのは200年後の大正時代になってからである。
外国で回転ドラム式の脱穀機が開発されたのは1786年と書物に書いてある(リリ-著「人類と機械の歴史」による)から…この面でも日本は遅れていたことになる。これも鎖国の影響か?

千歯こき

 岩夫さんの発動機の導入は、この地区の農家の人に大きな刺激を与えたに違いない。わが家でも、また近隣の家でも、それから1~2年後には石油発動機と関連機器を持つようになった。
 機械化は何もかもいい事ずくめではなく、機械はお金が大変かかる。当時の石油発動機はアメリカ製で1馬力半から2馬力程度のものであったが、エンジン1台が200円位であったと聞いている。当時のお米の値段は平均1俵12円くらいであったから、今の価格で換算すると30万円くらいになる。機械は便利であるが、その頃の経済事情からすると高価なものであったといえる。

2.小型耕運機
 ここまでは収穫から調整までの機械であった。耕運機は作付け前の耕起・整地の機械である。土地を耕す作業は大変な力(パワ-)を要するので機械化には強力で、しかも、日本農業に適する小型のエンジンを必要とした。やがて実用化された耕運機が日本で最初に導入されたのは、岡山県の興除村ではなかったかと思う。 田中野田でこの小型耕運機が使われるようになったのは昭和12年頃で、和気督祐さんのお家のように聞いている。

3.動力用モ-タ-と「い製品」織機
 明治時代から戦前まで、この地方は「い草」の産地であった。また、農家の主婦の副業として「中継ぎ畳表」が盛んに織られた。モ-タ-による動力織機で「茣座(ござ)」が作られるようになったのは昭和14~15年頃かららしいが、普及したのは戦後である。今では田中野田で原好幸さんの工場だけとなっている。

4.トラクタ-とコンバイン
 戦後は農業機械も改良され、次第に進んできた。コンバインがこの地区で使われるようになったのは昭和43年頃で、今は故人の中尾 澄君が最初ではなかったかと思う。
 昭和50年前後、農家でも乗用自動車・貨物自動車を持つようになると、トラクタ-やコンバインが急速に普及してきた。
 コンバインが使われるようになると、稲の収穫作業の「刈り取り・結束・集積・脱穀・集積(稲わら)」が一度に済むことになり、作業がすごく楽で能率的になる。乗用トラクタ-も仕事を楽にしてくれる。
 昔、石油発動機が導入された時、こども心に嬉しく興奮したことが機械化の進んだ今から思えば、恥ずかしくなるくらいである。
 現在、稲作では作付けから収穫しての乾燥・籾摺りまで全て機械化していることは周知のとおりである。その代償として農機具代もますます嵩み、喜んでばかりはいられないのも事実である。
 農業はいうまでもなく自然の恵みをうけて成り立つ。同時に世の中の進歩発展の恩恵も受ける。有り難く思わねばならない。また、機械のなかった時代、肉体を酷使して働いた親たちを含むこの地区の先人の苦労を思うと、頭の下がる思いがする。改めて「ご苦労さまでした」と申し上げたい。

追記
“幕府は「新規法度」といって、新しいことは一切まかりならぬということになっていた”と岡長平「岡山開化史」にある。

「参考」
発動機や動力耕転機のことについては、谷口澄夫「岡山県の暦史」に次のような記事(全文省略要旨のみ)が載っている。

 発動機については、上道郡富山村の和田又吉が大正6年、揚水作業に石油発動機を使用したのが始めてであった。その後、大正9年に和田は脱穀にも発動機を応用した。以来、発動機は県下で次のように急速に普及する。大正9年66台、大正14年3,948台、昭和15年20,000台を突破し全国一位を占めた。

 動力耕転機は、第一次大戦の直後、藤田農場で外国製の耕転機が使用されたが、実用に至らなかった。
 上道郡宇野村の西崎浩は、同郡財田村でスイス人によって行われた耕転機の実演にヒントを得て、大正末年にロ-タリ-型耕転機を試作、昭和3年には実用新案特許を得、丸二式耕転機の製作・販売を始めた。
 児島郡灘崎村の板野初五郎も大正15年に試作機を完成し、昭和初年に板野式の名称で販売を開始した。
 児島郡興除村でも、農民たちが大正末年頃から板野初五郎・西埼 浩・藤井康弘などの業者に働きかけて耕転機の製作と改良に協力した。
 耕転機が実用化されると使用台数は年々増加し、昭和16年には県下で2,000台を突破し全国3割を占めた。

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