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辰巳村 長瀬浪次先生のこと

〔その37〕

平成10年7月号 第47号 中尾佐之吉

 私が初めて長瀬浪次さんの名前を知ったのは岡山市史で、明治の学制改革以前に開設されていた市内の塾(寺子屋)の記事によってである。その後、虫明松次郎さんが少年の頃、浪次さんから「日本政記」(頼山陽著)などを教わったことが松次郎さんの履歴書に書かれていて、一層関心がもたれ浪次さんのことをもっと知りたいと念願した。その頃、辰巳の墓地で浪次さんの石碑にお目にかかる。

 碑文は次のように漢文である(註1)。非才の私ながらこれを現代文に意訳しようと試みた。この結果、明治の文明開化の時期、教育の職務に携わり郷土の人々の教化に努力された浪次さんのことが詳しく分かりありがたく思う。そして、郷土の先駆者浪次さんのことを少しでも多くの人にお知らせすべきだと、このシリーズ(わが郷土を語る)に加えることにした。ただ、碑文の私なりの現代訳は次のとおりであるが、漢文に弱い私のことだから誤りなきを期しがたい。大意でもお伝えできればとの私の意図に免じご寛容のほどを。

 「業は勤むるに精しく、行は思うに成る(註2)」という古くから聞くその言葉どおりの人を今に見る。その人とは、長瀬君浪次なり。
 父甚吉、母中務氏、備前国御津郡今村において嘉永4年(1851年)5月18日に生まれてその次男となる。性温厚にして謙虚、年少にして学問の道に志を立て長ずるにおよんで教育のことに従う。順則・野田・今村の3小学校に奉職、進んでは校長を歴任する。30余年を経て、その功績見るべきもの数々ありとして官庁の賞するところとなる。明治34年3月、岡山県知事は模範教員なるをもって金15円(註3)を賜う。
 明治35年、本人は老体の故をもって現役を退く(註4)。村民は衆議によって浪次さんへ書状と記念品を贈りその徳行を表彰した。明くる年3月、官庁は彼に金65円を毎年賜ることになった(註5)。蓋し、これこそ特旨と言うべきであろう。明治38年、転じて今村役場の書記となる。のち助役に就任した。
 明治43年(1910年)8月2日、病のため逝去、享年60歳であった。先祖の墓の側に葬られる。
 君は精勤をもって終始、公徳心に富むをもって世にも尽くす。学校に道路に公の事業ある毎に進んで投資して、その費用を援助する。官庁はこれを賞し郷里の人はこれを欣ぶ。君の卒するに及んで遠近の人あとから君のことをいとしんで、その理由のあらましを銘にして墓石に刻むことを余に請うたのである。(撰者 河上市蔵)

註1 碑文の撰者は残念ながらどのような方かよくわからない。碑文には略字も使われていたが、上掲では概ね普通文字に改めた。また、「」の字はどうしてもわからず、文章の前後から「旨」と推定した。なお、最後から3行目「輙」(チョウ)の文字はいろいろ解釈はあろうが、ここでは「進んで」と訳したことも付記しておく。
註2 中国、唐朝時代の文豪として知られる韓愈(かんゆ)という人の文に次のことばがある(「漢詩漢文名言辞典」より)。碑文の最初のことばの語源は、これではないかと参考のため書き添えた。
『業精干勤荒干嬉』(ギョウハツトムルニクワシク、タノシムニスサム … 学業は努力すれば精密なり、遊び楽しめば荒廃してしまう)
『行成干思毀干隋』(コウハオモウニナリテ、シタガウニヤブル … 行動は深く思慮すれば成功し、気ままにすれば失敗をする)
註3 15円を今の金に換算すると大体6万円くらいか(倍率は、米価によって換算した。…手元の資料では明治34・35・36年の1俵当たりの平均米価は4円36銭なので倍率は、4千にした)。
註4 この年、浪次さんは51歳である。当時は、この歳で老年だという。今では考えられないことだ。
註5 65円を今の金に換算すると26万円くらいと思えるが、これは恩給だろうか。だが、この時期この制度があったのだろうか。調べてみると恩給制度は大正12年に制定されている。したがって、浪次さんへの賜金は碑文に言われているように特別の計らいといえるわけだ。

【付記】
1.順則小学校の跡地はどこ?
 明治12年の辰巳村史(今村史所載)によると同村の北位、字九の坪に小学校があったことが記され、生徒数、男75人、女15人とある。この学校が順則小学校であり、校舎は池田藩の演武場を譲り受け明治9年この地に移築されたことも今村史に記載されている(今村史にはこの校舎の敷地面積は331坪で、建物のそれは91坪とある)。

 順則小学校は、のち野田小学校辰巳分校と名称が変わる。明治26年今村尋常小学校ができて廃校となった。この校地はその後元の田んぼに戻った訳だ。
 辰巳町内の岸本光章さんの話によると、この土地を区画整理前まで「学校地」と呼んでいたそうだ。この田んぼを耕作していると、当時使われていたと思われる石盤や石筆が土の中から出てきたとのこと。

 この小学校の跡地を岸本さんに教えてもらって、戦前の今村図と現在の住居地図に示したのが次の図である。もうこの辺りは区画整理と都市化により、昔日の面影を見つけることはできない。

順則小学校跡地

2.石盤・石筆とその思い出
 石盤・石筆は岡山県三石の産で「ろう石」から作られたのであるが、明治5年にもう売り出されている。鉛筆やノートのなかった時代には、これで読み書きや計算を習ったわけである。ただし、明治33年文部省令によって衛生上の観点から鉛筆とノートを使うよう改められたそうだ(以上は、吉岡三平著「岡山事物起源」による)。
 しかし、そうは言われても小学校一年生に鉛筆・ノートはそぐわなかったのであろうか、私が小学校一年(大正12年)の時でも、この石盤と石筆を使って勉強させられた。だから、石盤石筆と聞くととてもなつかしい(中仙道の小野田弘さんは、先代がつかわれたこの石盤・石筆を今も大切に保存されている)。

 下は中仙道の小野田弘さんに見せて頂いた順則小学校建築資金の寄附に対する県の感謝状を縮小コピーしたものである。

 当時、順則小学校へ入学している子女の父兄等が学校建築費を寄付したのだろうか。その頃の生徒数が90名くらいであったことは、既に述べたとおりである。
 金額の1円85銭は当時の米価から考えて米1俵分の金額と思われる。今の貨幣価値に米価で換算すると1万8千円くらいだろうか。この程度の金額だとたいした額のように思えないかもしれない。しかし、明治9年頃の警察官(巡査)の初任給が月額4円だったり(明治9年の1俵当たり米価は1円18銭で明治12年のそれより安かったが)、昔は田地1反の価格は大体米100俵分とされていたから、米価を単純に指数化してお金を評価してはならないわけだ。現在の米1俵分の価値より昔のそれは相当高かったと思わねばなるまい(本文で述べた長瀬浪次さんの県から受けられた賜金の価値についても同様に考えねばなるまい)。

 右の卒業証書も小野田弘さん宅に保存されていた順則小学校卒業証書を縮小コピーしたものである。これは順則小学校下等小学課程第7級修了のものであり、当時は下等小学課程と上等小学課程とあって下等小学課程では第8級から第1級まであった。各級の課程は6か月である。
 この証書は第1年次(第8級と第7級の2期)を修了したということで卒業証書が交付されていることがわかる。証書の5月3日の日付の意味もよくわからないが(現在は3月に一斉卒業または修業するので)、名前のところに当5月9年とあるのは5月には9才になっていたという意味に解釈できる。また、5月卒業は前年の5月に入学したので、この年5月に卒業したのだとも考えられる。

 当時のことだから義務教育制度になっていても親がこどもを学校にやらない家が多く、特に女の子の場合、学校も親がその気になればいつでも受け入れるという状況だったのではなかろうか。
 証書の印判で知られることは、当時は学区制があって岡山県が全国第四大学区に所属しており、御野郡が岡山県で第十三中学区の区域であったということであろう。

【補充資料】

 皆勤証は児童を毎日出席させようとの意図らしい。当時は学校へ出席させるのに苦労したであろう(小野田弘氏談)

皆勤賞 表面

【補充資料】

 当時の校名「岡山県御野郡尋常野田小学校」

皆勤賞 裏面
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