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備前法華を今地区に見る

〔その22〕

平成6年10月号 第32号 中尾佐之吉

 前回、岡山市で有名な「蓮昌寺」のことを書いた。そして、この蓮昌寺は大覚大僧正の創建になることも述べた。この大覚大僧正は京都で妙顕寺を開かれた日像上人の弟子と言われているが、後醍醐天皇が隠岐へご遷幸された頃、元弘3年(1333)岡山の地に来られ、日蓮宗を勢力的に布教された。当時、備前の守護職(後の金川城主)であった松田氏の強大な援助も得て、後年の「備前法華」と言われる基を築かれたのである。

 「妹尾千件、皆法華」と言うことばがあるが、この地区(旧今村)でも周辺地区を含めて当時の住民は皆、日蓮宗の信者になったと思われる。今もこの地区へ古くからおられる家は殆ど日蓮宗である。そして、どこの集落も(昔の「村」)にも、その一画(昔はおおむね墓地の近く)に「南無妙法蓮華経」と刻まれた題目石を建立し、日蓮上人をはじめ日朗様・日像様・大覚大僧正の石塔が建てられている(末尾の写真参照)。当時は、天災地変や疫病に悩まされていたので、家内安全・五穀豊穣を願ってのことでもあったと思われる(注1)。また、今地区の古い村々には次に見られるように、日蓮宗の寺院が数多く建てられていた。

今地区の古い村々にあった寺院

 しかし、備前藩主でかって名君と言われていた池田光政の命令で、寛文6年(1666)全て取り潰されてしまったといわれる。

 池田光政は孔子を崇拝し儒教を信仰していたためか仏教嫌いで、特に法華宗(日蓮宗)は当局の言うことをきかない独善的な宗派であると決めつけ、中でも不受不施派は徹底的な弾圧を受けたのである。それでも、この派はあらゆる迫害に耐え、表向きはともかく内々での不受不施思想を堅持していたことはよく知られているとおりである。

日蓮大聖人

 世が変わり明治になると信仰の自由が認められた。日蓮宗不受不施派も施政者の200年にわたる抑圧から解放されるのである。この地方に多かった不受不施信仰の方々の喜びはいかばかりであったろうか。

 時代は下がって戦後になると農業技術の進歩普及により五穀ばかりでなく、いろいろの作物が大量生産され食生活も豊かになる。また、医学と医療施設や制度の改善により、かつて苦しめられた伝染性疾患は大方克服されるようになると、往時のように作物の出来不出来とか健康のことなど、何でも神仏の加護に依存する風潮が薄れ、信仰は専ら先祖供養に向かうことになったように思える。そして昔、村人たちが朝に夕にお祖師様にお参りし祈っていた頃に比べると最近はこのことも疎遠になっているようだ。

 信仰心の薄い私にものを言う資格はないのだが、ある人が言っているように「私たちの最後の運命は、どうも人間の手にないらしいという感覚を持つことが、信仰を持つことなのである」とすれば、何もかも自分の思うとおりにできるという自信過剰者は別として、われわれの命運を司る神仏を簡単に見捨てることはできないはずであると申し上げねばならない。

平田村のお祖師さま
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