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「ふれあい新聞」40号発行に寄せて(御南の語源も)

〔その30〕

平成8年10月号 第40号

 このたび、10月発行の「ふれあい新聞」が40号になると伺いました。年4回の発行でしたから、町内会がこの新聞を作り始めてちょうど10年ということになります。10年一昔と言いますが、年月の経過の早いのにあらためて驚かされます。

 始まりは昭和62年でした。当時、御南中の南の技能開発センター(現在はポリテクセンター)に勤めておられた井出正成さんが、用紙代だけいただければパソコンとコピー機で印刷をしてあげますと言われ、はずみがついたのでした。このことは、かねてからの念願でしたが、印刷に相当の費用がかかることを心配して踏み切れなかったのです。井出さんのご厚意は全く渡りに舟でした。
 名称を「ふれあい新聞」としたのも7組の林さんの提案が採用されたからでした。井出さんが転勤になられて心配しましたが、町内の方にワープロを打っていただき、印刷は上中田さんのコピー機を使わせてもらうことで何とか継続できたのでした。
 現町内会長になりましても、新聞の続行に格別のご心配をいただき今日にいたっているわけで、ありがたく思っています。

 この新聞の第1号で“御南”ということばの解釈を書けと言われて書いたことを覚えています。他所から転入してこられた方々はこの“御南”をどう読むのか、その意味もわからないらしいのです。考えてみれば最もなことです。最近、この町内に転入してこられた方も(この5年間で世帯数が2倍になっていてびっくりしているのですが)「御南中学校」「御南小学校」「御南西公民館」という字や言葉にぶつかるわけですから、同じような疑問を持たれることになりましょう。したがって、また同じような質問を受けます。そこでこの際、もう一度編集者の了解を得て、”御南”ということばの由来を次に書き添えさせてもらうことにしました。

 明治の中頃まで、岡山城下町の西南一帯のこの地方は御野郡(みのごおり)と言われていました。御野郡の北に津高郡(つだかごおり)が接していたのです。そして、明治33年の郡制施行を機に県内の郡が統合され、御野郡と津高郡が合併した際、両郡の頭文字をとって、御津郡(みつぐん)と名付けられる。御津郡は、南北に長い郡で北端は真庭郡に接していたのです。このため、岡山市に近い牧石村以南の村々は「津高郡南部」として内輪の交友圏域ができていたのです。例えば、南部の12小学校で、スポーツの対抗試合が毎年行われたように。
 
 戦後、新制の中学校ができることになりましたが、この地区では当時生徒数の関係で今村・大野村・芳田村の共同の「御南中学校」が設立されたのです。校名は御津郡南部4か村の知友学校という意味をこめての命名でした。しかしその後、この4か村は昭和27年、同時に岡山市に合併しました。また、人口と生徒数の増加に伴って旧白石村の白石地区や旧大野村・旧芳田村は別の中学校区として独立し、または他校区へ編入したので残りの校域では”御南”という言葉の意味と実態がそぐわなくなったかも知れません。いいえ、そうでなくてもう牧石村ほか御津郡南部の全村が岡山市域になっていて、「御南」は死語だと言われても仕方ないでしょう。しかし、西小学校の分離校も「御南小学校」を名乗り、新設の「御南西公民館」にこのような名称がつけられたのも同一中学校区内なので、やむを得ないのではないでしょうか。
 
 その「御南中学校」も創立50周年を迎えると聞きます。そうです、過去のいきさつはどうであれ、もう“みなん”はこの地区の代名詞になったと考えてはどうでしょう。そして、この地域の過去の歴史の面影をわずかでも残す、この“みなん”ということばには、私たちにとってもなつかしい思い出が込められているのです。小さな「ともしび」ですが、”みなん”の灯が消えないことを乞い願ってやみません。

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