故虫明松次郎さんの足跡をたずねて(その2)
〔その36〕
平成10年4月号 第46号 中尾佐之吉
(その2)修学の履歴
松次郎さんは子どもの時、学校もなかった頃は、どこでどのように勉強したのだろうか。学校ができても、どんなことを習ったのだろうか。興味があった。幸い、本人の学業関係履歴書を見せてもらう機会をえたので、松次郎さんの修学の跡を尋ねてみることにする。
①~④印の箇所は、下記に筆者が注釈を書いてみた。参考になれば幸い。
註1 ①蟲明整さんは同じ中仙道の人。明治2年は整さん21歳の時である。御野郡24番小学はこの整さん宅に設けられていた。三字経は江戸時代に漢文3文字を一句として書かれた児童教訓書。
註2 ②156番小学は辰巳村の大森喜之吉さん宅納屋に設けられていた。それが松外小学校と名づけられ、さらに順則小学校と改称したのである。校舎も池田藩の演武場を譲り受け、辰巳村へ解体移築して利用した。
当時は小学校の課程を上等と下等に分けていた。 松次郎さんの学ばれた下等小学の課程は次のとおりである。ひとつの級の修業は6か月なので、下等小学校を終えるには4年かかるわけだ。しかし、松次郎さんはこの課程を3年で済ませ、上等小学校へも進まず私塾で勉強して師範学校へ入っておられる。
註3 ③長瀬浪次さんは辰巳の人で順則小学校の校長もされた方。日本政記は頼 山陽の著書で史書(-広辞苑より-)
註4 ④雲蒸学舎の雲蒸とは「雲蒸龍変」(雲がかすむのに乗じ、蛇が龍に変じて空にのぼる)の言葉からとってつけた名前と思えるが、この名前にあやかりたいとの人気なのか、生徒数は明治5年頃130人にものぼっていた(岡山市史による)。
付記1 雲蒸学舎にしても師範学校にしても校舎は市中である。松次郎さんは雨の日でも冬の寒い日であろうと、下駄や草履(?)で家から5キロから6キロの道のりを歩いて通ったのであろう。しかも、帰りは夜道だったに違いない。当時は勉強も大変だった。
付記2 松次郎さんは師範学校に学びながら特別に数学を学んでいる。特に土木工事や測量に必須の三角法まで勉強しておられる。ただの向学心だけでなく、何か将来に期するところがあったのであろうか。聞いてみたくなるところだ(注釈など書き加えたいことも多きも、余白なく省略)。