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昔の生活をふりかえって(その2)

〔その29〕

平成8年7月号 第39号 中尾佐之吉

 前号ではこの地方の住生活で昔から「イロリ」が使われていなかったことを書かせてもらった。今回はどこの家にも畳が敷かれていたことを書こうと思う。洋間ならともかく“和室に畳が敷かれている。”あたりまえのことでないかと思われるのであろうか“…。

1.昔の農家は畳生活が一般的ではなかった
(1)山口県、周防大島の話
 宮本常一著「家郷の訓」につぎのような記事がある。
 「今でこそ床板の上に畳を敷き布団にくるまって寝るまでの生活になっているが、その頃(明治12・3年-17・18年頃)は竹の簀の子(すのこ)でその上に筵(むしろ)を敷き、寝る時に茣蓙(ござ)を敷き、身体の上に薄い布団をかける程度であった。冬分はイロリに火を焚き、イロリの側で背中をあぶりながらごろりと寝たという。これは私の家だけでなく貧しい家の一般の風だった」。

(2)司馬遼太郎氏の著書では
  「江戸末期の百姓家は床も張っていない土間にわらを敷いて生活をしていた」との記事もある(「日本歴史を点検する」より)。

(3)身近な「備前藩百姓の生活」(荒木祐臣著)の本では
 「百姓たちの住宅は極めて粗末な藁葺きの田の字形間取りの住宅で、入り口には決まって牛屋を置いていた。田の字形の間取りは座敷・下の間・勝手・納戸の四間であるが、畳が敷いてあるのは座敷だけで他の三間は粗末な筵(むしろ)敷で勝手の間のイロリを囲んで家族たちは食事をするのだが・・・・」という記事がみられる。
 なお、住宅の建築には松材を主体とし杉・檜などの上級材は使ってはならないとか、屋根は瓦でなく藁屋根にせよ。更には畳の表替えまでお役人に伺いをたてねばならないなどの“お触れ”も備前藩から出ていたという。

2.この地方では農家でも畳が敷かれていた
 この地方の農家で、明治以前に建てられそのままの形で現存するものは皆無であるが、大正6年生まれの私が子供の当時、わが家もそうであったし“わら葺”屋根の家は少なくなかった。明治以前の家と思われる家は、大抵の家が田の字形四間つづき主体の間取りで、広い土間や厩(うまや)があり、畳はどの部屋にも敷かれていた。筵(むしろ)を敷いている家はなかった。家の床の構造からして最初から畳が敷かれるようにできていたとしか考えられない。この地方が江戸中期以降、い草の栽培が盛んになり畳表を使用することは自給自足だから、お役人から「贅沢だ使ってはならない」と言われなかったのだと推測する。

 早島町の歴史民族資料館の同町歴史年表によると、元禄時代-1700年頃、庶民の家にも畳が敷かれていたとある。


3.むすび
 この地方では昔から畳の生活であったと威張るつもりは毛頭ない。この地方にい草が作られる以前は、周防大島の住生活と似たようなものであったであろう。
 そして、このような生活は農家ばかりではなかった。貧乏旗本の家に生まれた勝海舟の若い時は、蚊帳(かや)も布団もなく椽(たるき)を破り柱を削ってご飯を焚いたことがあったという。なお、蘭学者で画家の渡邊崋山は、田原藩(1万2千石)の家老筋の家柄ながら、少年時代の一家はどん底生活で夜も布団らしいもののないところで寝たという。(「勝海舟伝」より)
 上下水道が完備し冷暖房設備も整い、照明から炊事・洗濯まで住生活のあらゆる面で電化(部分的ガス化)された現代生活の状況は、前世紀(半世紀といっていいかもしれない)以前の住生活とはあまりにも差がありすぎて比較もできない。もう、家に畳が敷かれていたとか敷かれてなかった、イロリがあったとかなかったとかは問題ではない。”往時の庶民の生活はあまりにも貧しかった”と総括するしかないように思う。

 この記事を書きながらふと私の幼い頃を思い出す。その頃、真夏の夜がむし暑いので夕食後、どこの家でも一畳台をだして夕涼みをしていた。
 隣家の涼み台にもよく遊びに行っており、そこのおじいさんから日露戦争の話やら、火の玉が飛ぶ怖い話などを聞かされた。
 今は蚊もいないし部屋にはク-ラ-もあって近所の人との夕涼みも蚊帳(かや)の中へ寝ることもなくなった。私は今の平和で豊かなよき時代を生きさせてもらいながらも、なお、昔を懐かしく思う歳なのである。

一畳台




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