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昔、日の丸弁当・今、豪華な学校給食

〔その27〕

平成8年1月号 第37号 中尾佐之吉

 前回は生活の中の「衣」について書いた。今回は「食」について書こうと思う。といっても、前回同様その一端として、私の小学校時代の昼食弁当と今の学校給食を取り上げて食生活の移り変わりをみることにする。

1.現在の学校給食
 現在の学校給食は戦後に始まったのであるが、市内小学校の今年12月の献立表を見せてもらった。ある日の献立は次のとおりであった。

ごはん、牛乳
ふきよせ煮(若鶏、焼き豆腐、うずら卵、里芋、栗、しめじ、人参、かまぼこ、えんどう)
みずなの即席漬(みずな、ちりめんじゃこ)
くだもの(みかん)
小学校給食 献立表 平成8年12月

 献立は毎日変わる。主食にはごはんの日もあり、パンの日もあるが、牛乳と“くだもの”はいつも付いている。なお、児童一人当たりの熱量は650カロリ-が基準とか。

2.戦前の学校給食(東北地方の例)    
 戦前にも学校給食があったのかと不思議に思われるかも知れないが、この地方のことではない。昭和の初め頃、東北地方の農村で相次ぐ凶作と不景気のため多くの欠食児童が出たということで、学校給食がなされたところもあったのである。
 昭和12年刊、結城哀草果著「続村里生活記」によると山形市近くの山元村での学校給食の記事が載っている。その中の欠食児童への補食的給食の献立表数日分の中から、ある日の献立表を見ると次のとおりである(分量1人分)。
 なお、この費用は県や村の交付金と義捐金で賄われたとある。

12月20日
芋 飯…半搗米1合、馬鈴薯 小2個
味噌汁…ごぼう、かつお節 少量
漬 物…白菜
12月21日
白 飯…半搗米1合2勺
煮付け…鰊、昆布、大根、人参
漬 物…白菜
山元村 学校給食献立表(昭和10年頃)

3.私らの小学生時代の昼食弁当
 体の小さい小学生が教科書と弁当箱の入ったカバンを肩にかけて学校に通うのであるが、その小さな弁当箱には、ごはんと何がしかのおかずが入っているのである。
 この地方は米どころであったから「貧乏人は麦飯を喰え」と言われても米のごはんではあったが、おかずたるや甚だお粗末なものであった。白いごはんの中へ梅干しが1個入っていると“日の丸弁当”と言われていたが、それより少しましなくらいなものであった。

 たまご焼きなどついていたら最高で“たくあん”に“つくだに”や“みりん干(干魚)”くらいのものだった。山元村の学校給食よりも劣っているし、カロリ-にしても栄養にしても質量とも満点の今の学校給食に比べたら天地の相違だ。当時は満腹感が得られれば上等とされていた。なにせ、現在の学校給食に毎日出される牛乳も、昔は病人か裕福な家庭の人が飲んでいたくらいのものだったのだ。もちろん私の口には入らない。

 昔から「衣食足りて礼節を知る」(中国、春秋時代の人「管仲」の書物に基くと言われる)ということが言われてきた。戦後の経済発展と共に衣食住の生活面も格段に豊かになってきたので、このことわざが生きてくるはずだと期待していたのだが…。
 学校でのイジメ問題や市井でのもめごとや争いごとが相変わらず新聞種になっているのをみると、管仲先生の説もあやしいと言わねばならない。しかし、戦前のように「父母ニ孝ニ、兄弟ニ友人ニ、夫婦相和し、朋友相信シ」と何ごとも秩序を重んずる時代でなく、人が個人として最大限尊重されなければならないという世の中に変わったのだから、人々の自己主張が多くなり争いごとも増えるわけで、いまさら2600年以上も前に生まれた管仲先生をせめる気にはなれない。
 話が横道にそれてしまった。お許しを。

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