御野郡(みのごおり)へ嫁にやるな
〔その20〕
平成6年4月号 第30号 中尾佐之吉
昔、こんなことが囁かれていても嫁のきてがなかった訳ではないが「みのごおり」とは、この地方のことである。私たちにとっては、恵まれた土地と思っているのに「嫁にやるな」と言われていたとなると由々しい問題である。しかし、単純に腹を立てる前に、何故そのようなことが言われたのか考えてみることにしょう。その前に、まずは「御野郡」とはどのあたりを指すのか、と言うことから話をはじめることにする。
1.御野郡とは
この地方を含め概ね旭川右岸、笹ケ瀬川左岸のうち玉柏以南で岡山城下町を除いた地域である。明治の初めは51村もあったが、明治22年町村制がしかれて、当時はつぎの10か村となっていた。
【牧石村・御野村・伊島村・石井村・鹿田村・古鹿田村・大野村・今村・芳田村・福浜村】
このうち、御野・伊島・石井・鹿田・古鹿田の各村は明治・大正期に、福浜村は昭和6年岡山市へ合併し、残りの村も現在全て岡山市へ編入されている。
2.夏暑く冬寒いこと (当たり前のことであるが、それとも…)
御野郡は、旭川・笹ヶ瀬川のデルタ地帯の新開地で岡山平野の一部をなしている。全国的にみれば、岡山は気候温暖で恵まれた地域である。ただ、冬は「備前のからっ風」と言われるように、岡山平野を冷たい風が吹き荒れる。また、夏は「備前の夕凪」と言われて、その時間帯には風がぱったり止んで絶えがたい蒸し暑さを感ずる。
北隣りの津高郡(注1)などで見られるように山を背にして南面に集落を作っているようなところでは、比較的ではあるが冬暖かく夏涼しい訳で、これらの地区の方たちが沖の広い田園地帯に点々と建つ家が寒風に吹きさらされているのを見ると、痛々しく思えたらしい。このことも理由になったかもしれないが…。
3.労働が厳しい
「嫁にやるな」の根拠の第一は、労働が厳しいと言うことであったろう。昔、農作業はすべて肉体労働であったと言う点では、何処も同じあったと言える。しかし、御野郡は昔からい草の栽培の盛んなところであった(特に作付反別が増えたのは、明治の半ば以降と思われる)。い草は、寒い冬に水を張った田んぼへ植える。また、刈り取りは真夏の土用の炎天下である。
そして農家の主婦は、農閑期を利用して畳表を織るのである。しかも、夜業までしてのことであるから休む間もないくらいであった。特に若い嫁さんがこき使われるとなれば、可愛い娘に苦労させたくない親心がこのような「嫁にやりたくない」の言葉となったのだろう。
ただし、悪いことばかりではないのであって、当時、い草の栽培は水田の裏作として大きな収益を得、また、副業としての畳表の製織も農家に現金収入をもたらした(注2)。経済的にゆとりある生活ができていたことも申し添えておかねばならない(注3)。
注1 御野郡は明治33年の郡制施行により、津高郡と合併し御津郡となった。
注2 昭和10年頃、い草反当粗収入は、約200円(反当収量80斤×2円50銭)
中継畳表1束(10枚)は10円位だったとか(小野田 弘氏談)。(当時、米は1俵10円程度として米作の反当粗収入は自作地で70円~80円位と考えられる。-いずれも生産費調査の資料手元になく、純利益不明)。
注3 昭和10年発行の「岡山県農業要覧」によると次の記事が見られる(1316ペ-ジ)。
「(岡山県)南部地方山陽線沿線地帯は、東大阪府下南部地方、愛知・静岡の両県、広島県の備後地方、愛媛県の一部と共に全国有数の副業地帯を形成し、白亜門塀の農家相並んで富裕なる農村の模範と称せらるるもの、副業に負う処誠に尠しせぬのである」。
4.変わってしまったこの地区
今、この地区は区画整理による道路網の整備により、かつての田園地帯が急速に都市化していて昔の面影は無くなってしまった。田んぼも少なくなったし、栽培されたい草はもはや見られない。冷暖房の完備した家屋、電化・機械化が進み車社会といわれる現代生活の中では「嫁にやるな」は死語でしかなく、この言葉がもたらすかってのさまざまの思い出が懐かしくさえ思えてくる。
昨夏、市内のバス停で待ち合わせている時、主人の勤めの関係で北海道から来ているという婦人が「岡山の夏は暑い、それに魚がおいしくない、早く北海道へ帰りたい」と話してくれるのだ。
私は気候、食べもの、その他なんでも良いところと思っていたので、岡山がいやだと聞いてびっくりした。考えてみれば「住めば都」というとおり、自分の生まれ育ったところが最高と思うのが一番良いのだと改めて思った。
・・・・ふるさとはありがたきかな、だ。郷土を愛しよう・・・・