明治生まれのパイオニア「原孝一」さんのこと
〔その8〕
平成元年4月号 第10号 中尾佐之吉
いまは昔、と言っても約70年前、大正8年のことである。現在、「田中野田バス停」の南の原商店のある場所に精米所が作られた。当時としては最も近代的な内燃機関と言える。「ガスエンジン」を動力とした精米所で当時、数え年25歳の原孝一さん(原好幸さんの父君)が創業した。私が幼児の頃である。そのエンジンはガス発生装置を動かすことから始めねばならないので、エンジンの始動には時間がかかるばかりか、回転も今のように早くなかった。
精米所の稼動する日に私は恐る恐るのぞき、リズミカルに動くエンジンに終日見ほれていたものである。
写真は大正10年(1921年)に撮られた開設当時の原精米所。向かって左側の人物が当時の美少年、原孝一さん。私にはとても懐かしい写真である(原好幸さん提供)。
この精米所が作られる前は、各家庭で足踏みのカラ臼で米をついていた。この動力精米所は田中野田のみでなく、今地区でも機械化加工場の第1号であったろう。また、ここでは精米ばかりでなく、い草の肥料として使われていた大豆粕玉(その頃、満州-現在の中国・東北地方-から輸入していた)の粉砕の機械も備えつけられていて、周辺農家は大変便宜を受けていたのである。
この精米所も昭和初期、「電動機(モーター)と還流摩擦式精米機」が普及するに及んで休止された。現在ではこの精米機も小型化されて、農家の各家庭で使われるようになった。
この地区で米麦とい草の栽培しか考えていなかった時代に、外国製の高価なエンジンを導入し精米工場を始めた青年実業家・原孝一さんの「時代を先取りしよう」というパイオニア精神に感銘を受ける。
孝一さんがこの事業を始めようとした動機、ましてや採算や経営状況は知る由もない。孝一さんにしてみれば機械化・近代化が徐々に進みつつある時代の動きをとらえて地域の為に役立てようと、いち早くこの事業を始められたと思われる。採算のことよりも新しい時代を切り開こうとする孝一さんの開拓精神が私にも伝わってきて、「常に前を向いて歩くんだぞ」と言われているような気がする。
皆んなの後についていって間違いのない平凡な暮らしに満足するのでなく、リスクを恐れず新しい時代に向けて自らを試そうとする明治の人のチャレンジ精神に改めて敬意を表したい。