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岡山空襲 -体験談2話-

2022/06/17

カテゴリー: 体験談・記録

今から77年前、第二次世界大戦中の昭和20年(1945年)6月29日、アメリカ軍により岡山空襲が行われました。過去に町内会員が寄せた体験談を貴重な記録として改めてご紹介します。

1.田中野田と岡山空襲

旧ホームページ 田中野田エピソード#8より (寄稿者 中尾佐之吉氏と思われる)

 昭和20年6月29日は、忘れもしない岡山空襲の日である。当時、私は学徒動員で砲弾を作る兵器廠(しょう)へ行っていたが、空襲時には家に居た。
 午前1時頃、飛行機の爆音で目が覚めた。すぐ起きて裏口から東の岡山の空を見たが、暗く何の変化もなかった。表口に回ってみると20m先の田んぼの中で火が赤々と燃えており、すぐ空襲だと分かった。火は焼夷爆弾で炸裂した後の残り火だった。笹ヶ瀬川の堤防近くの田んぼにも2~3個落ちていて火があちこちに見えていた。市民を逃がさないため、街の周囲から爆弾を落としていったものと思われる。
 やがて多数の爆撃機の爆音の下、空から花火のような無数の火が、そのまま地上まで消えないで落ちてきた。その度に不気味な低い炸裂音と共に火の手が岡山方面のあちこちに上がり始めた。東だけでなく南も北も四方八方火の海となった。西の庭瀬方面一部が暗いだけだった。田中野田から見て一番近い所で燃えていたのは、平田地区の民家だった。
 家の前には防空壕が掘られていたが、田植え前の田んぼに水が張られている時期で水が溜まって入れなかった。親戚の叔母が来ていたが家の前の畑にうずくまり、その上に布団を掛けその上から水を掛けた。空襲は2時間程ほど続いた。まるで生き地獄だった。

 空襲の次の日、道端には行く先もなく雨に打たれて多くの人があふれていた。夕方、家で作った握り飯を手引き車で運ぶことになった。ところが、道端で一夜を過ごした人たちが握り飯に気づき、餓鬼のように貪り食べたので、もろぶた4~5箱の握り飯は見る間に消えてしまった。瞬時の出来事で唖然とした。後で役場の人に叱られたのは言うまでもない。
 空襲後、家を焼かれたおびただしい人々の群れが続き、田中野田へもやって来た。暑い夏のこと、何も持っていない人、焼けただれた布団を抱いている人など着の身着のままの人達だった。私の家でも5家族20人ほどの人を泊め食事を与えた。1~2週間滞在した後、縁者を頼って出て行った。


2.戦災記念日に寄せて

ふれあい新聞 第43号(平成9年7月1日発行)掲載   副会長 小原正行

 黄色いトマトの花が咲く頃になると、必ず私の脳裏に強烈な思い出としてよみがえってくることがあります。それは昭和20年6月29日未明、岡山市を襲った大空襲のことです。南方の戦局は日増しに悪化、学校では毎日避難訓練があり、大都市への空襲に加え田舎町にも空襲があろうとは…。
 当時、私は12才で市の中心部に住んでいました。ドロドロという音と地響きを夢うつつに聞いていた私たち(親子4人)は近所の誰かが叫ぶ「空襲だ!」のひと言で飛び起き、身支度もそこそこに家の外へ…(当時の緊急合図はサイレンで、当夜は鳴らなかった)。
 市の周辺はどの方向も炎が上がっており、逃げ場といえば炎が遠く、燃える物がない場所に行くしかない。幸い?にも周辺から中心部へと渦巻状に焼夷弾が投下されたため、やっとの思いで旭川畔まで逃げることができたのでした。

空襲後の岡山市街

 やがて朝を迎え、避難者は三々五々身を寄せる先へと移動して行ったのでしたが、幸い私たちには祖父の家が田中にあり、一時、身を寄せることになった訳です。街中から旧2号線を徒歩で西へ。路上には焼死した人たちが虚空をつかんで横たわっているのを横目に見ながら歩きました。死を目の前にしながら助かった安堵感と空腹のため、祖父の家までの6kmは何倍にも感じられたものでした。
 やっとたどり着いた白鬚宮では、罹災者への炊き出しがあり、ここで頂いた銀シャリのおむすびに沢庵漬は、半世紀経った今でも忘れられないものです。
 平和な日本、消費と飽食の時代、私たちは過去にあったことも折に触れ、振り返ってみる必要があるのではないでしょうか。
 当時、お世話くださった方々に感謝申し上げると共に、空襲で亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りいたします。

1930年頃の岡山市の地図
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