石山公園の再整備工事が行われている模様 石関町

投稿日:2026年6月3日

令和8年06月03日(水)
石山公園の再整備工事が行われている模様

岡山市が進めている「岡山城西の丸周辺広場(石山公園)再整備事業」に伴い,3月下旬より再整備工事が実施されている模様です。今回の再整備では,岡山城周辺の景観をより良くし,誰もが憩える飲食イベント広場として新しく生まれ変わる予定です。

工事はまず,長年親しまれてきた樹木に感謝を捧げ,作業の安全を祈願する「石山公園樹木伐採修祓祭 2026/05/07」を行いました。

近隣の皆様には工事期間中ご不便をおかけいたしますが,新しい石山公園の完成をどうぞ楽しみにお待ちください。


石山公園における樹木伐採修祓祭は,長年地域を見守ってきた樹木を伐採する際,その「木霊(こだま)」に感謝し,工事の安全と御霊の平穏を願う神事です。木の霊性への敬意を表し,作業前にお祓いを行います。 
主な特徴と内容
  • 目的: 樹木に宿る神霊を鎮め、伐採工事の安全を祈願する。
  • 神事の流れ: 樹木を伐採する前に行い、神籬(ひもろぎ)に神様をお招きして祭祀を行う。

予定通り進むことで,企画書をもとに新しい石山公園へ生まれ変わり新世代の若い人たちが楽しむ広場となります。

しかしながら・・・・・

現在,この再整備には,議論が不足している,説明が不十分,本案の再整備にモヤモヤしているなど,推進計画に異論を申し立てる市民が立ち上がる傾向も見えています。なぜ,そのような事例が今になって噴出するのか,考えてみましょう。


【1】

石山公園の再整備計画と江戸時代の地下遺構の件

この公園は昭和30年代に整備された模様です。当時は平和記念公園として様々な団体やライオンズクラブとか青年会議所,小規模なボランティア組織などが,思い出とか顕彰などを目的に,石碑や銅像とか植樹などを設置しています。現在では,それらを設置された世代は高齢化へ,そして逝去された人たちも多く,若い世代の人たちには理解がされておりません。そして,岡山市の都市計画課は,そのような平和記念公園を放棄して,次世代に向けてイベント公園へ衣替えを企画している模様です。この案件について,具体的に昭和初期からこの場所の歴史や周辺町内会の意見など,まとめることはできるのでしょうか。
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岡山市北区石関町にある石山公園は,戦後の復興から現代の都市計画の立案に至るまで,非常に重層的な歴史と地域の想いが刻まれた場所です。

この公園は昭和30年代に整備されて以降,戦没者や空襲の記憶を留め,平和への願いを具現化する「碑(いしぶみ)の立つ広場」としての役割を強く担ってきました。

第11回世界連邦日本大会の開催を機にこの記念碑を建設

しかし現在,岡山市が主体となって進めている「岡山城西の丸周辺広場・石山公園整備及び管理運営事業」により,イベントや民間商業施設(カフェ等)を誘致した「賑わい重視の空間」へと大きく舵が切られようとしています。

この案件について,昭和初期からの歴史的背景,設置された記念碑の意義,そして現在の都市計画と周辺住民・町内会の視点を整理して岡山市から丁寧な説明はなされているか,不明です。

A. 昭和初期から現代に至る「石山の地」の歴史
石山公園とその周辺は,岡山の都市の歴史において常に中心的な役割を果たしてきました。その変遷は大きく4つの時代に分けられます。

戦前(昭和初期まで):岡山の「始まりの地」と密集した市街地
戦国時代,宇喜多直家が構えた「城」の跡地周辺であり,本来の岡山の発祥の地です。江戸時代に本丸が現在の岡山城(烏城)に移って以降も,武家屋敷や城郭の一角として機能し,明治から昭和初期にかけては旭川の舟運や城下町の交通の要所,公的機関の存在,金融機関が集中,商店街の中心地として,多くの木造家屋や鉄筋建築,大店の商店が密集する活気ある街並みが形成されていました。

昭和20年(1945年)6月29日:岡山空襲による壊滅
大空襲により,中心市街地は一瞬にして焼け野原となりました。これにより、それまでの歴史的な街並みはすべて失われることになります。

昭和30年代 戦災復興と「平和記念公園」としての歩み
戦後の区画整理事業の一環として,旭川河畔のこの地が「石山公園」として整備されました。焦土から立ち上がった昭和30年代当時,身内や仲間を亡くした遺族,地域の有志,ライオンズクラブ,青年会議所(JC),民間ボランティア組織などが,次世代への教訓と哀悼,そして復興への決意を込め,競うように「石碑」「銅像」「顕彰碑」「記念植樹」を建立していきました。

昭和62年(1987年):平和都市宣言のシンボルへ
岡山市が「平和都市宣言」を行ったことを記念し,公園内には「平和の像」が建立されました。毎年6月の「岡山市平和の日」前後には,市民団体によるピースフェスティバルなど,単なる緑地ではなく「平和の砦」としての性格が決定づけられました。

平和都市宣言記念 平和の像
基本情報
所在 石山公園
住所 岡山県岡山市北区石関町7
(岡山電気軌道「城下」電停 徒歩2分)
連絡先 岡山市 保健福祉局 福祉援護課 福祉係 086-803-1218(直通)
建立者 岡山市
建立年 昭和62年3月
※H24.11発行「平成24年度 全国の戦災の追悼施設・追悼式」より
(調査時期H24年度/情報提供元は、岡山市 )

B. 顕彰碑・記念碑の現状と「世代交代」の課題
公園内に点在する数々の碑や植樹は,建立した当事者たちにとっては「生きた記憶の証」でした。しかし,設置から60年前後が経過した現在,深刻な課題に直面しています。

当事者世代の高齢化と物故
碑を管理・維持してきた民間組織やボランティアの第一世代が他界,あるいは高齢化,個々の碑が「誰によって,どのような具体的な経緯で建てられたのか」という詳細な記憶(文脈)が薄れつつあります。石山公園の歴史年表が存在するのか,岡山市が情報をまとめて公開文書になされているのか,不明です。

若い世代への伝承の断絶
碑文の文字が風化し,背景にある昭和30年代の熱量や悲痛な歴史が,現代の若い世代や新しい住民や若年層の市民にとって「単なる古い石碑」として風景の一部に同化してしまっており,本来の意義が理解されにくい環境になっている事実が現実です。

C. 岡山市の都市計画 イベント・賑わい空間への「衣替え」
現在、岡山市の都市計画課(都心創生本部等)が進めているのは,令和4年(2022年)にリニューアルした岡山城天守閣と連動し,周辺一帯の回遊性を高めるための「公募設置管理制度(Park-PFI)」を活用した一体的再整備です。

整備計画の概要
岡山市は,旧岡山市民会館跡地(中央エリア),旧NHK岡山放送会館跡地(東エリア),そして石山公園(北エリア:約6,176平方メートル)の3つを連動させた大規模な再整備方針(2026年1月公表)を進めています。旧内山下小学校については深堀は控えているように見せていますが,世論などを見据えながら推進するようですから,進める方向性は変化していない模様です。

エリア 敷地 主な整備内容・方針
・石山公園(北) 約6,176㎡ オープンカフェ等の民間便益施設(常設),公衆トイレ,旭川河畔と一体となった憩い・イベント広場
・市民会館跡地(中央) 約5,252㎡ 多目的公共施設,歴史を感じる憩いの広場(旧市民会館のモザイクガラス等の一部保存)
・旧NHK跡地(東) 約2,699㎡ 主に駐車場・照明設備の整備
岡山市の方針としては,「地域と観光の視点が調和する憩いの交流の場」「大小様々なイベントが開催できる賑わいのオープンスペース」を掲げており,民間事業者の資金による飲食・物販施設の常設化が計画されています。

この中で,既存の「平和の像」やボランティア団体が設置した多数の石碑・顕彰碑の扱い(移設,集約,あるいは撤去など)が,物理的・空間的な再レイアウトのなかで議論の対象となっています。

D. 周辺町内会や地域住民の意見・論点
この「平和の空間からイベントの空間へのシフト」に対し,周辺の町内会(内山下地区連合町内会など)や地元住民の間では,期待と懸念の双方が入り混じって,複雑な様相へと変化しています。


【2】

☆懸念・反対の視点(歴史と静謐の維持)

歴史の忘却に対する危機感
「先人がどのような想いでこの場所に碑を建て,平和を祈ってきたのかという精神性が,商業化によって踏みにじられるのではないか」という強い懸念があります。特に,イベントの騒音や商業施設の存在が,慰霊や平和を考えるための「静謐(せいひつ)な環境」を損なうという指摘です。

管理の放棄への不満
世代交代で維持が難しくなったからといって,行政側がそれを引き取る(あるいは解説板を設置して後世に伝える)努力を怠り,単に「古いもの,賑わいの邪魔になるもの」として排除・集約しようとすることへの抵抗感です。

☆ 期待・容認の視点(地域の活性化と持続可能性)
治安維持と空間の健全化
従来の石山公園は,夜間やイベントのない時期に人通りが少なくなり,暗がりができることで治安上の懸念を抱く住民もいました。常設のカフェや明るい広場ができることで,「人の目」が行き届く安全な公園になることを望む声もあります。

「生きた空間」としての次世代への継承
若い世代が全く近寄らない,閉ざされた記念碑の並ぶ空間にしておくよりも,イベントや日常の憩いの場として人が集まる空間にリニューアルし,その一角に洗練された形で歴史や碑の意義を「再展示」する方が,結果として次世代に記憶を繋ぐことができるのではないか,という現実的な意見もあります。

今後の動き
岡山市は2026年(令和8年)4月に事業者募集要項を公表し,同年9月下旬にプレゼンテーション選考,10月中旬には優先交渉権者(民間事業者)を決定するスケジュールで動いているようです。

この計画が「過去の歴史の忘却(放棄)」になるか,あるいは「歴史を内包した新たな憩いの場」になるかは,これからの基本設計の段階で,市民や地元町内会がどれだけ「碑の尊厳と歴史的文脈の維持」を市や事業者に強く働きかけられるか,という点にかかっています。


さて歴史をさらに遡ると・・・


この石山公園が存在している周辺地域には,岡山藩時代の堀へ旭川の水を管理する人工物や樋門などが存在していました。それらは現在は地下埋蔵物となっており,岡山市の遺跡調査が過去に実施され,調査資料が保管されています。旭川と城内の堀を繋ぐ要所として目に見えるかたちの遺産は地下遺構です。現状は表から見ることが不可能です。今後も地下埋蔵物の公開について,どのように扱うのか不明です。


【3】

深い歴史の確信に触れる指摘について。

石山公園とその地下に眠る水利遺構は、宇喜多氏・小早川氏・池田氏へと受け継がれた「岡山城の防御(外堀)」と「城下の水害対策・利水」を両立させるための、最高峰の土木技術の結晶でした。

かつてこの場所には,天然の要害である「旭川」の激流をコントロールし,城郭を守る外堀へ水を導く(あるいは逆流を防ぐ)ための「水門」、複雑な「樋門(石組の暗渠・水門)」などの人工土木構造物が集中していました。

これらの一大水利システムの大部分は現在、石山公園や城下交差点へ行く路面のアスファルトの下に「地下埋蔵文化財(城下町跡・岡山城跡遺跡)」として眠っており,過去の断続的な発掘調査(岡山市教育委員会などによる調査)によって,極めて精緻な石組の遺構や水路跡が確認され,資料化されています。

この「旭川と堀を繋ぐ要所」において,現在でも「目に見えるかたちで地上に残されている遺産」にはどのようなものがあるのか,具体的に考えます。

現在も目に見える「旭川・外堀結節点」の遺産
完全な形で残る樋門そのものは地下ですが、地上からその「痕跡」や「当時の水利計画のスケール」を体感できるポイントがいくつか現存しています。

1. 水手門跡(みずのてもんあと)の巨大な石垣
石山公園から岡山城(本丸方面)へ向かうと本丸を仰ぐ石垣の南近くに,かつて旭川からの物資の搬入や、水利管理の拠点であった「水手門」の石垣が明瞭に残っています。本丸の段に存在する,六十一雁木上門は昭和41年(1966)に木造復元されています。門の下には旭川から水を供給する「水の手」と呼ばれる給水施設がありました。当時は石段から下ると大きな櫓門があったとされています。現在は急な坂道の様相に見えます。

この場所の見どころ  旭川の川面に対して開かれた門であり、ここがまさに「川(外水)」と「城内(内水)」を繋ぐ、最も象徴的な境界線でした。水之手門は現在なくなっていますが,残る重厚な石垣の積み方から、水の圧力や敵の侵入を防ぐための強固な設計を見て取ることができます。

2. 旭川の「雁木(がんぎ)」と護岸の石垣群
石山公園の東側、旭川の河川敷に降りる斜面や護岸には、江戸時代から続く頑強な石組みや、舟を寄せたり水位を確認したりするための階段状の遺構「雁木」の名残が見られます。

単なる現代のコンクリート護岸ではなく,過去の変遷を経ながらも,城下町を水害から守るために築かれた「池田藩の土木工事のライン」が,現在の公園の敷地境界(川とのキワ)としてそのまま形をとどめています。

3. 「内堀(烏城公園の堀)」と石山公園の「高低差」
目に見える直接的な人工物ではありませんが、「地形そのもの」が最大の遺産です。

見どころ  現在の石山公園は平坦に見えますが、岡山城の内堀(水が溜まっているエリア)に向けて,なだらかな,あるいは不自然な高低差が存在します。これは、かつて外堀や水路が走っていた「窪地」を戦後の復興期(昭和30年代)に埋め立てて均した結果であり,周囲の道路や本丸側の石垣との位置関係を観察すると,地下のどこに水路(樋門)が通っていたのか,その立体的なルートを視覚的に想像することができます。

都市計画(イベント公園化)における「地下遺構」の最大の論点
「イベント公園への衣替え」において,この地下埋蔵物(樋門・水利施設)は,実は今後の開発を左右する最も大きな科学的・法律的ハードル(論点)になる可能性があります。

遺構を傷つけない「工法」の制約
岡山市が計画している「常設のオープンカフェ」や「大型イベント用ステージ」などの建築物を建てる際,地面を深く掘削すると,地下に眠る貴重な石組の樋門や堀の遺構を破壊してしまう恐れがあります。そのため、文化財保護法に基づき,市は事前に緊密な調査や,遺構に影響を与えない「浅い基礎」での建築を余儀なくされます。旧内山下小学校を含む城廓の再開発も同様に,文化財保護法に基づく事前調査が必要です。

歴史遺産の「完全な隠蔽(放棄)」か「可視化」か
現在の市の基本方針では,これらの水利遺構は「地下にあるもの」としてそのまま埋殺し(保存はされるが,見えない状態を維持)にし,地上をイベント空間にする方向性が強いです。
しかし,周辺住民や歴史専門家からは、「せっかく次世代のための公園にするならば,芝生やアスファルトで覆い隠すのではなく,発掘された樋門の一部をガラス張りの床から覗けるようにしたり,地上に水路のラインをデザインとして再現(可視化)すべきだ」という建設的な提案(ガイダンス機能の付与)もできるでしょう。

まとめ
石山公園の周辺には,目に見える「水手門の石垣」や「旭川の護岸」が今も残されており,それらは地下にある「水管理の人工物(樋門)」と完全に一連のシステムとして繋がっていました。

昭和30年代に設置された平和記念の碑(いしぶみ)が「地上の精神的遺産」であるならば,岡山藩時代からの樋門や水路は「地下の科学的・土木的遺産」です。

イベント空間へのリニューアルを急ぐ岡山市の都市計画に対し,「地上の記憶(平和への祈り)」と「地下の記憶(先人の治水技術)」の双方を、次世代にどのような形で「目に見える遺産」として引き継いでいくのか。

単なる商業的な賑わい創出だけで終わらせないための,非常に重要な局面を迎えています。


 

§外部リンク 資料は,岡山市公式の庭園都市推進課ページでご確認ください。

§内部リンク 岡山城西の丸周辺広場整備事業

カテゴリー:町内会の活動

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