山羽虎夫の胸像が移設・建立70年を経て 岡山城堀端から旭川堤防上緑地の京橋西詰へ

投稿日:2023年4月27日

令和5年04月27日(木)
旭川堤防上緑地

山羽虎夫の胸像が移設されました。建立が1954(昭和29)年ということで,この年(四輪自動車完成の年から50周年を迎えた),除幕式には出席しているということです。その3年後,1957(昭和32)年12月21日,83歳で死去しました。

建立からほぼ70年を経て 岡山城堀端から旭川堤防上緑地の京橋西詰に、設置場所が往時の工場に近い場所へ移りました。

彼は,1874(明治7)年12月20日,岡山県で生まれました。その後,神奈川県横須賀市へ移り学業に励み技術を磨きよく働いていた模様です。彼の得意とすることは,依頼されると,思考,設計,試作,実働,修繕,維持,などの模様です。特に精密さを求められる製品の創作には誰にも負けない力と情熱が発揮されていたようです。首都圏の企業から移管の話が入っても岡山で仕事を続けるという理由で固辞されたという話もあります。

四輪自動車(蒸気エンジン)を日本国内で最初に設計と実車(十人乗合バス)を完成した人です。1904(明治37)年5月7日,日本初の国産自動車となる蒸気自動車の試運転が行なわれました。走行した道は,現在の千日前から旭川東岸へ行くと国清寺があります,その国清寺から出発して三蟠まで6キロ,じゃり道を走リました。

タイヤのゴムが不具合の多発とピストンエンジンを動かす蒸気の圧力を高める手間で運転に苦労が多いにも関わらず三蟠へ到着したということです。

構造としては,蒸気バスなので,蒸気を発する鋳造と鉄板でできた高圧に耐える釜,火力を発するガソリン噴射装置,そして床下に2シリンダ蒸気ピストンエンジン,回転駆動を伝えるチェイン,後輪車軸や衝撃緩衝材のバネ,前輪を左右に向ける軸材,ブレーキ装置など,特注ソリッドゴムを独自の技術で製作したタイヤを,という具合です。車体重量が800キログラムといわれています。それにしても溶接が存在しなかった時代に,自動車用途タイヤも国内生産していなかったのに,人を乗せ,創意工夫を重ねて走行を行ったことは開発者として殿堂入りは誰もが認めます。

詳しい記事は,日本自動車殿堂 研究・選考会議の書庫にあります。当時,日本国内で走る自動車は欧州製など海外から輸入していたのですが,それを国内生産することに情熱を傾けた最初の人となります。往時の記念写真が残されています,実車に乗って写っている男性は,製作を依頼した人物(出資者)とその家族ということです。

実車は解体されたということで,熱意がある愛好者がレプリカの製作を行っています。模型も作成されたということで大切に保存されて展示されているようです。

なお,胸像が移設された場所で式典を行う件は,4月27日現在,不明です。

追記2023/05/02  移設完了した山羽虎夫の胸像が改めて除幕され,午前に開かれた式典には大森市長,山羽虎夫のひ孫,そのほか来賓の参列,レプリカの蒸気バスを展示,が見えた模様です。京橋西詰の森崎稲荷の隣へ。移転を計画したのは「山羽虎夫顕彰プロジェクト・表町商店街や町内会ほか企業の関係者で組織された」。除幕式には22人が参列,長谷川誠(表町商店街連盟理事長)も挨拶されました。(碑文に,岡長平・生年明治23(1890)年12月14日没年昭和45(1970)年12月1日出生地岡山県岡山市・旧都窪郡妹尾・が識した碑文。製作者氏名,依頼人氏名,胸像の建立提唱組織と動機や年号が明示されている)
§ 外部リンク 「功績を広く発信」初の国産自動車を製作・山羽虎夫の銅像をにぎやかな場所に移転【岡山】 RSKニュース 掲示期間が過ぎると表示タイトルは消滅する場合があります

§特定非営利活動法人日本自動車殿堂 山羽虎夫 顔写真と履歴など

§日本の自動車技術330選 山羽式蒸気バス

§グーグル検索 山羽虎夫 蒸気自動車

移設された山羽虎夫の胸像 京橋西詰の森崎稲荷の隣 写真:小玉康仁

移設前の山羽虎夫の胸像 岡山城下の段の南堀

移設完了した山羽虎夫の胸像  京橋西詰の森崎稲荷の隣 2023/05/02

カテゴリー:おもしろ町内会めぐり

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