操明懐かしの写真館(第11回)

投稿日:2021年6月24日

葬儀風景今昔

前回の婚礼風景(出会い)に続く人生儀礼の葬儀(別れ)風景の今昔を見てみます。
人の死は家族にとって最大の悲しみであり、葬儀をどういう形で行うかは時代背景や家風、宗教、地域等によって事情は異なりますが、最愛の故人との別れ、感謝そして弔いは遺族の重要な務めです。
葬儀も婚礼と同じく以前は自宅で行われるのが当たり前で、準備や受付、立飯やお茶の接待、駐車場の手配、テント建て等は町内が、仏事は同じ宗旨の人(講仲間)がそれぞれ葬儀会社の人と行っていた。
昭和50年台位になると車で来る人も多くなり、住宅事情もあって駐車場があり、冷暖房や参列者の待合スペースを完備した葬祭専門の会場で行われる方が多くなってきた。便利ではあるが地域のコミュニティーが薄れる一因となったようにも思う。
さらに、現在では家族葬も多くなり故人との別れも時代の流れとともに変わってきたが、亡くなった人への感謝と思い出はいつまでも大切にしたいものです。

昭和5年10月(江崎)今から90年前の葬儀の様子ですが喪主は白装束(袴に帷子)女性は頭に白布を被っている。理由はよく分からないが立派な葬儀で宗旨は天台宗。

戦時中(昭和17年頃)同じく喪主は白装束で僧侶も多く、故人を運ぶ御篭も立派で土葬と思われる。

支那事変(昭和12年勃発)で戦死した三蟠村出身兵士の村葬風景(操南小学校講堂) 僧侶と神職が多数同席し、手前には白の割烹着に大日本国防婦人会と書いたたすき掛けの女性が多く参列している。

太平洋戦争で戦死した軍人の葬儀風景(操南小講堂前の運動場)
中央は戦死者の遺族で左側の二人が両親、真ん中が子息、隣が妻で右二人が娘さん。手前右席に僧侶、両サイドに親族や主な参列者席。中央テントの左側には村長はじめ多数の役職者、右側には親戚、知人からの花環がならんでいる。
上記はいづれも当時の葬儀風景を知る貴重な写真である。

文責  萩原正彦

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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