操明この人第4回「津田永忠」

投稿日:2020年3月14日

新田開発の立役者「津田永忠」

津田永忠は、今から約300年前(1700年頃)池田の殿様「池田綱政」の時代に活躍した土木技術者です。池田藩時代の主な建築・土木事業は彼の業績と言われています。中でも、操明学区に関係深いのは、操明学区が位置する「沖新田」、その沖新田の開発です。

江戸時代、操山から児島までは「吉備の穴海」と呼ばれた遠浅の波静かな内海でした。綱政の命を受けた津田永忠は、旭川の左岸から吉井川右岸までを堤防で囲み、内側の海水を潮の干満を利用して排出し、約2000町歩(2000ha)を陸地にしました。(下図参照) 今では都市化が進み、干拓地という面影は少なくなりましたが、操明学区は彼の業績「児島湾の干拓」で成り立っています。(山崎泰二氏のコラム集「雑学の泉」より抜粋、一部編集)

干拓等によって出来た陸地の分布図(赤色の部分が沖新田)

津田永忠の主な業績(操明学区内に残る干拓工事の遺跡)

(注1) 潮止堤防
堤防のほとんどは改修されて往時の面影はないが、写真(産業道路と交差する地点から東)部分には藪が繁りわずかに当時の様相が残る。

(注2) 潮廻し
堤防からしみ込んでくる海水を上流からの用排水で薄めて四番川(大きな遊水池)へ流し込み、樋門から排出する役目となる緩衝水路。

(注3)四番川
百間川西手の用排水を潮廻しなどを経てここに集め、樋門から放出するための溜升のような役目をしてきた。
現在は旭東排水機場のポンプにより強制排水が行われている。

(注4)百間川
岡山の城下町を旭川の洪水から守るために造られた人工の放水路。

(注5)百間川河口水門
現在は西に昭和水門、東に平成水門と近代的な樋門が並ぶが、往時は大小6つの石の樋門があり中でも長大な唐樋は東洋一といわれ、世界遺産の候補となったほどである。
沖新田干拓工事では最後の排水樋門工事が難工事で、無事完成させるために沖田姫が人柱に立ったという伝説が今に伝えられている。

(注6)仕切土手
旭川堤防と百間川堤防を結ぶ東西道路。JA操南、山陽病院前の道路。
北にある宮道と共に干拓工事の名残りを残す仕切り道で、今も昔もこの地区の主要道路である。操南学区との境界線にもなっている。

 

 

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