操明懐かしの写真館(第6回)
投稿日:2021年4月4日
歴史街道(旭川三蟠土手)
海の玄関として栄えた三蟠港と岡山市街地を結ぶ旭川三蟠土手には明治以降現在まで数々の出来事があった。
●明治18年の明治天皇岡山上陸時には宿舎後楽園の延養亭へ向かう道中、三蟠土手を県民の奉迎を受けて2頭立ての馬車で進む。
●三蟠港を利用する船客は人力車で市街地へ向かう人も多く、土手道は人の往来であふれていた。とりわけ、明治24年に山陽鉄道(後の国鉄山陽線)が開通するまでは上方方面、大阪や神戸との交通は海路が主だったため多くの人々が行き来した。
●明治25年に当時東京帝大の学生だった夏目漱石が、松山への帰省途中、義姉の再婚祝いに岡山に立ち寄った時に、また、瀬戸町出身の陸軍大将、宇垣一成が三蟠港から大阪行きの汽船に乗るために、この土手を通ったとも言われている。
●明治37年5月7日、日本初の国産自動車山羽式蒸気自動車が三蟠土手を走った。
偉業のきっかけは、江並の資産家楠健太郎(材木商)と森房造(呉服商)の義兄弟が前年大阪の博覧会で外国製蒸気自動車を見てほれ込み、購入して乗り合いバスに転用しようと考えたが、あまりの高額に手が出ず、山羽虎夫に製作を依頼したことで、岡山は日本の自動車の発祥の地となる。
●昭和6年に軽便鉄道が廃止後は乗り合いバスが三蟠土手を走ることになるが、産業道路が開通するとバス路線も●昭和53年6月から変更し新道三蟠線として両備バスが運行している。
●昭和21年の南海地震では土手に大きな亀裂が出来る。
●昭和37年の岡山国体で地区民大歓迎の中を国体旗が土手道を北へ走る。
●平成27年から岡山マラソン終盤のコースとして全国からのランナーが完走を目指す。
時代とともに歴史を刻んできた三蟠街道はまさに歴史街道と言えるでしょう。
- 三蟠港から岡山市街地への三蟠街道を行く人力車
- 一里(4Km)を米一升が相場だった。

三蟠土手を行く明治天皇を奉迎する民衆は数万人に達したという。
- 烏城公園南のお堀端に立つ山羽氏の銅像
- 裏側には山羽氏の偉業と発注者の森・楠の卓見を讃えている。昭和29年春 岡長平(識)とある

山羽式蒸気自動車は25馬力で、燃料はガソリンを使用。車上の人物は発注者の家族。
発明者の山羽虎夫は明治7年市内の門田生まれ天瀬で電気機具修理などの町工場を営んでいた。腕のいいエンジニアと言われた山羽は発注者から依頼を受け車の構造などを研究、全くの手探り状態からわずか7ヶ月後には完成させたという。明治時代に29歳の若い岡山人が町工場で国産自動車第一号を誕生させたことは岡山県民の誇りだ。
走行は天瀬の工場から三蟠港までの道のりで、山羽自身が運転した。自動車を一目見ようと大変な人出だったようだ。時速10キロ位で走り、途中タイヤの不具合で立ち往生することもあったが、無事三蟠に到着した。
- 山羽式蒸気自動車の模型(トヨタ博物館所蔵)
- 平成21年5月7日に105年前と同じコースをクラシックカーでたどるイベントが行われた。
- 大正4年開業の三蟠軽便鉄道の三蟠港駅舎
- 松並木の続く大正5年当時の旭川土手風景(江崎付近)
- 岡電の赤バスに対抗し、岡山バスの車体が白い銀バスが土手道を走っていた
- 軽便鉄道廃止後は駅舎がバス乗り場になった。昭和6年に三蟠自動車(株)が岡山バスに合併、後に更に両備バスに合併
- 昭和21年12月21日午前4時19分にマグニチュード8.0の南海地震が発生。写真は三蟠港付近の惨状
- 旭川土手にも大きな亀裂が(江崎付近)

昭和37年岡山国体旗を対岸の甲浦から受け取った三蟠体協・婦人会メンバーの出発前記念写真 右手に当時の体協会長、婦人会長、三蟠港町内会長の姿がある
この日のための豪華な歓迎アーチは内山工業、巴組がスポンサーとなり、山都屋が製作した
- 拍手の中を出発、平井体協へ引き継がれていく
- 地区民総出の声援。右奥の片屋根は当時の三蟠郵便局

近代的な道路として補強整備された旭川土手は、平成27年から11月の第2日曜に1万5千人のランナーが参加し、おもてなし全国一と評価される岡山マラソンのコースとなっている。
参考 三蟠村誌
文責 萩原正彦
カテゴリー:地域紹介
操明学区連合町内会












