操明のシンボル「明治天皇上陸記念碑」

投稿日:2020年6月25日

旭川河口部東岸(江並)にかって岡山の海の玄関として栄えた三蟠港があった。明治18年8月、西日本を巡行中の明治天皇が岡山の地で第一歩を印したのが三蟠港であった。
これを記念し地元有志が三蟠聖跡保存会(理事長は当時の岡山市長国富友次郎)を結成し、昭和3年6月頃から記念碑建設の運動を始めた。多くの人々の賛同を得て、昭和5年5月に起工し、同年11月に竣工した。同12日に関係者約500人が集まり盛大に除幕式が行われた。碑文は枢密院副議長の平沼騏一郎撰で宮内省御用掛の工藤壮平書による。碑は総高約8.18m、碑高約5.91m,碑幅約2・42mの大きさで、 建設地は県下最大の要港として三蟠港が繁栄していた当時の岡山水上警察本署があった跡地である。
今から90年前の貴重な写真を提供されたのは江崎の堀家(旧制齋藤)正子氏、彼女の祖父は聖跡保存会の常任理事を務め、地元の取りまとめに奔走された齋藤一夫氏。

碑文は難解でよく理解して読むことが困難でしたが、このたび郷土史研究に熱心な山崎泰二氏(桑野)が現代風に平易な文章に訳して下さり、135年前の出来事が生き生きと伝わり、人々の歓喜の情景が目に浮かぶようです。

【明治天皇上陸記念碑の碑文の口語訳(山崎泰二)】
明治天皇の王政になりすでに六州を巡幸され、各地の産業を視察し関係者を励まし、各地の先人の徳のある者を讃えておいでになり、天皇の御徳を国民全てが感じ入るようになりました。明治18年7月に山口・広島に行幸され、次いで8月4日広島宇品港を横浜号にて出発し春日・筑紫の軍艦が前後を護衛して岡山湾に入り三蟠港にて上陸されました。

陸軍少将能久親王や徳大寺侍従長・参議の伊藤博文がこれに従い、先の岡山藩主池田章政侯爵や千坂県令(今の県知事)らがお迎えしました。当地の旅館小林家に休憩後、儀杖を整えた正装(2頭立ての馬車)にて後楽園に至る。

当日(5日)は天気も良く海上(旭川河口部)では歓迎の小船900艘・陸路では数10万の県民が旭日の旗を振り花火を打ち上げ音楽での声援を贈る。高貴な天皇ではあるが実に簡素で実直な姿を拝して多くの国民は感動の涙に震えている。

翌日(6日)は県庁や裁判所・学校を視察され、行いの良い人物や80歳以上の者5300名に天皇から表彰されました。また天皇の名代として能久親王には岡山病院にそして徳大寺侍従長には閑谷学校に派遣されました。8月7日には専用の乗物にて上道・邑久・和気三郡を巡幸され三石を経てお帰えりになりました。

今(昭和5年)から45年前のことであるが県民こぞって明治天皇を追慕し、この聖跡の地三蟠に碑を建てて後世に顕彰するものである。明治天皇の巡幸は日本の国土全域を視察され、国民に親しく接していただいたことは、中世(後醍醐天皇の親政)以来500年ものあいだ武家に政治の実権を欲しいままにされていたが、やっと王権が戻り国の形が整い、益々国が盛り上がってきている。天子の恩徳が臣民の隅々まで照り輝いて天皇の国民を想う気持は父子のごとく有難い。

この様に清楚で威儀正しいお姿は、古来中国の徳が栄えた時代と同じで、天皇の御旗は天を仰ぎ羽ばたき良いことが国中に広まって行く。瑞い輝きが国々に行渡り国民は感涙して天子に従い益々発展する。この三蟠港は龍の足の蹄の謂れの地でもあります。尊い天子の聖顔を拝して素晴らしいご恩が一杯で玉石のような厳かで大いなるものを仰ぐ。  ( 山崎泰二 粗訳 )

堀家正子氏・山崎泰二氏 御両名のご厚意に深謝  参考文献 「三蟠村誌」
文 責   萩原 正彦

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