火の見櫓
出村には、古くから四角鉄塔の火の見櫓があります。公会堂敷地の片隅に悠然と聳え建っていて、その高さは風見鶏のてっぺんまで13.5メートルです。
往時の富山学区は、本村・中村・出村・福吉・福泊・山崎・円山・嶽・池の内の9つの村落(現在でいう町内会)から成り、どの村落にも火の見櫓はあったようです。その構造は鉄塔状であったり、ヒノキ丸太の梯子状のものや1本柱のものもあったようですが、いずれもその頂上付近には集落に火急の事態を報せるための半鐘が吊り下げられていました。
戦前には学区内の6個村落が競うように四角鉄塔の火の見櫓を建造しており、中でも出村の火の見櫓は立派なもので、子ども心にもとても誇らしく思った記憶があります。
顧みるに、火の見櫓は村落の富の象徴として、また、住民の心意気の顕示として、村落の中央付近で偉容を誇っていたと言えるでしょう。
村落内で火災が起きたり水害の危機が迫ると、青年団員がこの櫓に登って半鐘を乱打します。 戦時中は「敵機来襲」の情報が入ると警戒警報や空襲警報が打ち鳴らされ、学童は先生が引率して裏山へ隠れ、住民は防空壕へ身を潜めるのでした。
先の大戦の末期ごろになると、国策として大艦巨砲建造のために金属類の供出が発令され、各家庭の鉄火鉢やお寺の吊り鐘をはじめ火の見櫓も供出することになり、各村落の鉄骨製の火の見櫓はことごとく根こそぎ供出の憂き目に遭ったのです。
やがて終戦となり、わが国は復興の時代を迎えました。一部の村落では(決して豊かな財政状態ではなかったでしょうが)火の見櫓再建の機運が盛り上がり、出村は先代火の見櫓に優るとも劣らない立派な火の見櫓を再建したのです。
ちなみに、先代の火の見櫓は昇降用鉄梯子が“外付け”だったようで、その基部の痕跡が遺されています。
出村以外の他の5個村落も丸太等でそれぞれに再建したところもありましたが、半鐘を備えた火の見櫓として現存するのは、出村(四角鉄塔、13.5m)、山崎(三角鉄塔、9.2m)、円山(丸太製)の3基だけになっています。
半鐘だけは「国民に火急を報せる情報手段」だということで供出をのがれ、今も一部の火の見櫓に取り付けられていますが、現存するこれら3基はいずれも実態としては放送塔としての役目を果たしています。
結びに、出村の火の見櫓の存在意義を考察し、参考に供したいと思います。
- 現存する火の見櫓は、その規模・堅牢さからして希少価値が高く、この種の火の見櫓は富山学区内はもとより近隣の町内にも存在しない。 出村の先人たちが、防災と安全を期して顕現した心意気の象徴でもあるので大切にし、次の世代に伝承したい。
- 万一の火災に対する自主消火活動に際し、濡れた消火ホースを乾燥する町内唯一の施設(構造物)となっている。
- 非常災害時等における音声による情報伝達手段としての「放送」用トランペットスピーカーの設置場所として、火の見櫓の環境(場所及び地上高)は最適であり、みごとにその使命を果たしている。
- 非常災害時における無線通信組織の構成・運営において、現有の無線機では一部の避難場所~出村公会堂間は通話不能であり、対策としてホイップアンテナを火の見櫓上段に常設してこの問題点を解消している。(令和4年3月施工)もし、火の見櫓なかりせば、公会堂~(特に)富山中学校間の無線連絡は不能となる。
ともあれ、火の見櫓に込められた先人たちの心と共に、その歴史と効用をよく理解し、大切な町内の歴史遺産として管理し後世に伝えたいものです。
(文責:小野田)