「籰」(わく)

籰(わく)とは難しい字で聞きなれない言葉ですが、明治以前の戦乱の世において「軍勢の戦闘指揮に使う陣太鼓を載せて背負う道具」のことです。当時はスピーカーも無線もなく、聴覚的にはホラ貝や太鼓が使われたようで、これはその背負い陣太鼓の背負い具です。

歴戦の勇者(?)籰の全景

 

この小さな、でも由緒あり気な物体が平成の世になってしばらく経ってから出村町内会の倉庫で発見され、秋祭りの時にはこれに獅子頭を載せるなどして町民の目に触れることになったのですが、誰も特に深い関心を寄せることもなく歳月は流れて行きました。

今年はコロナ禍でだんじりも出ず、それでも公会堂に出された籰を目にして心の赴くままに古色蒼然とした黒い物体の屋根裏や底板、更に背負い板に書かれた文字を解読してみると、大よそ次のことが分かってきました。

屋根裏に朱書された奉納文

奉納文の解釈(意訳)

 

  • 明治初年当時、当県士族「湯浅源八郎」なる人物(上道郡史には海面村所縁の人と紹介されているが、どちらの湯浅さんのご先祖かは未解明)は藩の軍事兵器係として
    奉職した功績で、この籰に入った陣太鼓を時の岡山藩士八田弥惣右衛門(兵学者=1661~1727)から下賜された。
  • 源八郎はこれをありがたくいただき、時の村役11名と協議し連名で神社に奉納した。

時に、明治5年春3月のことであった。

「奉納」先については神社と解するのが自然だが、当時の地域自治組織たる壮年層による「款待社」に寄贈したとの説もなくはない。

 

また、なぜこの時期に軍用品を下賜したのかについては、「戊辰戦争が終わり、藩が所蔵していた軍用品を功労者に下賜した」史実があり、湯浅源八郎もそのような時期に拝受したのだろう」(岡山県立博物館横山学芸課長)とのことでした。

後日談(一部想像)になるが、神社(吉備津岡辛木神社)には宝物殿的な倉庫がなく、いつの間にか出村の倉庫に仕舞い込まれていたと思われ、現在健在の古老に尋ねても「幼少年期から今日まで、そんなものは見たことがない」、「丸端にあった白壁の村有土蔵の二階にでもあったものが、土蔵の取り壊し時(昭和30年頃)に公会堂横の倉庫に移設されたのだろう」とのことでもあり、わが町内の伝承物であることは間違いなかろう。

考証を進める段階でサニー組の福森夫妻の紹介で倉敷の大原本家や岡山県立博物館のご協力をいただきましたが、特に県立博物館からは「貴重な歴史資料だ。陣太鼓とセットなら更に文化価値があがる」と寄贈を歓迎する意向が示されました。

体底板の裏面に彫られた献者の書付。
享保二年(1717年)
の文字があるが、これは八田弥惣右衛門が当時これを誰かに献じ、戦塵を経て帰還したものを再使用(使い回し)したと解する説が有力

 

かくして、十数年前に倉庫から見つけ、毎年の秋祭りのつど日の目をみていたこの古ぼけた物体の元来の使途、更にはわが町内に存在する経緯や歴史資料としての価値が明らかになったのですが、そうと分かるとお粗末な扱いもできず、いつの日かまた「古ぼけた得体の知れない物体」と見なされ、決して環境よしとしない町内の物置きの中で朽ち果てて、やがて廃棄されてしまうことが憂慮されます。

籰の背負い紐側から撮影

 

そうしてはならじと、過日関係者(町内会長、青年部の幹部部員、町内会相談役など)が集い、この籰を岡山県立博物館へ寄付することに衆議一決、即日海吉出村町内会長名で「寄付申出書」を同館あてに提出し、11月12日午前、海吉出村公会堂において同館の横山総括参事官に無事引き渡しを終了しました。

現在、県立図書館は2年計画で改築中ですが、この出村の“お宝”は近日中にも快適な環境下で管理され、遠からず広く県民の高覧に供される日も来ることでしょう。

そのときは展示品名鑑に「海吉出村町内会寄贈」と明示していただくよう付言してあります。

それにしても、写真にある150年前のわが海面村の住人たちの子孫は、いったい現在のどこのお家なのか大いに関心のあるところです。

どうか、読者のみなさんにおかれては、「〇〇さんはうちの祖先です」「□□の名前はうちの墓地の墓石にあるよ」などの情報を、心からお待ちしています。

籰を背負ったときの背板部分に彫られた奉納者連名簿

 

なお、下段左端の「湯浅友太郎」は、当出村町内会の故湯浅文伍(別称文五郎)様の祖父に当たる方で、町内に伝わる獅子頭にも「明治十三年作 湯浅友太郎」の署名があります。

合わせて、この籰に吊るしてあったであろう小型の太鼓(陣太鼓)の消息についても、情報がいただけると嬉しいです。

(文・写真:小野田)

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