「掛け札」に偲ぶ明治・大正の息吹

ー前言ー

掛け札とは、本来は「江戸時代、幕府や領主からの通知事項を記して掲げた札。特に、年貢に関する事項を書いて、名主・庄屋の門や戸口などに掲示した札」(広辞苑)のようだが、後の世(印刷や複写の技術の広まっていない明治~大正期)にあっても、村当局から村人への告知・広報手段として、例えば「大師堂改築基金寄付一覧」等を板材に墨書し、村落の中央付近に位置する公会堂[昔は「集会場(しゅうけーば)」と言っていた]の軒下等に一定期間掲示して、報告と謝礼の意も込めて村民に周知せしめた1尺×1間(約30×180cm)の板材のことである。

ここに紹介する7枚の板材は、令和2年10月に秋祭りの準備作業中の町内会青年部員から「公会堂の天井裏からなにやら由緒あり気な板材が出てきた」との報告を小生が受け、自宅に持ち帰って考証した結果、明治から大正期の「掛け札」であることが判明した。

公会堂の新築(昭和41年)から数えると54年ぶりに日の目をみたことになり、当の青年部諸君も貴重な歴史資料の発見に驚いているが、これら掛け札の記載内容を考証するほどに出村の近世歴史年表の闇の部分が解明されるなどまさにお手柄であった。

これらの掛け札の四隅にはいずれも掲示したときの釘跡があり、掛け札を見ながら頷き合う村人の姿が目に浮かぶようだ。

寄付関係の掛け札では個人名と寄付金額を、しかも高額順に記載して発表(掲示)したようだが、個人の権利意識が強く、個人情報保全が声高に叫ばれる現代では到底考えられない行政行為がごく普通に行われたようで、金額が少なく後ろの方に書かれた村人はどんな思いでそれに見入ったのだろうか。

それとも、神社などでは「奉献」として金額をあからさまに玉垣などに刻んで施主を公表する文化も罷り通っているので、それぞれに応分の金銭や玄米を真面目に拠出し、そのありのままを公表する当局の措置を歓迎ないしは「これが当たり前」と、諦観のうちに納得していたのかもしれない。

また、寄付は現金ではなく玄米の場合もあり、更に「人夫 三人八分」等とも書かれていて、いろんな方法で村のために奉仕した様子が見て取れる生きた歴史資料だと言えよう。

(注)「人夫」は現在では禁忌用語で、「肉体労働者」のこと。この場合は「労働での奉仕人時」の意。

いずれにせよ、これらの掛け札は写真に収めると共に、記載情報は不鮮明な部分を解明~復元してパソコンで紙面に転写し、出村の近世の歴史文化遺産として海吉出村町内会のホームページに載せて後世に伝えたいと思う。

なお、これら7枚の掛け札の現物は梱包のうえ再び公会堂の天井裏に戻し、太平の眠りに就いて貰うこととした。

令和2年晩秋吉日
海吉出村住人 小野田 利 正 謹白

掛け札に書かれている人名は、今となっては「どこの家の人か」はご当家の住人でも若い方には分からないと思われ、写真のまま公開しても個人情報の開示には当たらないとの判断から、モザイク等の加工はしていません。

海吉出村電子町内会運営委員会

 

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