消えゆく庶民信仰=金神講(こんじんこう)

消えゆく庶民信仰=金神講(こんじんこう)

海吉出村地区には、古くから「伊勢講」「大師講」と並んで「金神講」という庶民信仰があった。

時は移ろい、時世は変わり、昭和20年代のころには奉参者は次々と退いてお伊勢講は廃れたが、今日まで細々と継承されてきたのが残る二つの大師講と金神講である。

そして、ここに紹介する金神講も時の流れには抗らえず、遂に閉講の道を辿ったのである。

金神講は、お厨子に納められたお札(ふだ)や祭祀用のお軸から察するに「天地金乃神」がご祭神と思われ、吾人はその教義など知る由もないが、どうやら現在の金光教と深いご縁があるようで、伝承の軸箱の内書きには墨痕鮮やかに「明治十年丑一月」とあることからしても、明治10年にはすでにこの地に金神講が行われていたと思われる。

この地に伝わる往時の資料(「月参散銭出納簿」「金の神御講月順」=いずれも明治22年、ほか)によると、この金神講は毎月1回、御神籤(おみくじ)で引いた順に各戸持ち回りで開かれていたようで、最盛期には30数軒の氏名が列記されていて、家の宗教に関係なく、在郷の殆どの家が講連中に名を連ねているようだが、どうかすると100パーセントの加盟率だったのかも知れない。

伝承によれば、お講の当番家は祭壇を設え、参講者は家長や古老が先唱(お先立ち)して大祓いをあげ、やがて時節ごとの当家自慢の手料理で、座敷も納戸もぶち抜きで村をあげての大祝宴へと移行したようで、神事も然りながら、コミュニケーションと社交の場としての意味合いの大きさが忍ばれるのである。

さて、往時の閑村にあっては月例の一大イベントであったと思われる金神様のお講も、男衆は戦地に召され、或いは戦死し、やがて敗戦~戦後~食糧難という激動の時代を迎えて参奉者は次々と去り、その形態も酒食からお茶とお菓子へ、更に催講頻度も3月、5月、9月、12月の年4回へと簡素化され、祭祀も近年は大祓いはやめて「日々がさら~天地金乃神」(金光教発刊)の唱和に代わるなど、時代の変遷に連れた様変わりを遂げたのである。

かくして平成時代の今日、最後まで金神講を継承してきたのは僅かに次の5軒~5氏となってしまった。(敬称略・年長順。付記したのは、それぞれの家の先祖まつりの宗旨)
湯浅利子(金光教)、湯浅 良(金光教)、湯浅和子(真言宗)、内田蓉子(真言宗)、大谷祝子(日蓮宗)

平成23年5月のお講のとき、講連中により遂に「閉講」の合意に至ったものの、少なくとも百数十年にわたって伝承してきたお厨子、祭祀用具やお軸、更には今や古文書の風格さえ醸す講順表や(今風にいう)出席簿(明治22年当時から現今までの物がある)を如何にすべきかと思いあぐね、時の町内会相談役(小野田利正)のところへ持ち込んだものの妙案を得ず、一旦は丸端の大師堂に安置はしたものの、心中釈然としない小野田相談役から情報を得た湯浅照弘氏(元、岡山市立図書館勤務で、郷土誌に関する出版物多数あり。当家も金光教)の知ることになったのである。

照弘氏は一件資料を見るなり即座に、「これは、庶民信仰を知る上での貴重な資料」「知己=かつての図書館勤務当時の同輩の金光英子様(金光教先代教主の孫で、現金光図書館に在籍)に紹介しよう」ということになり、やがて先方(金光教本部)からも「同意が得られれば教本部でお預かりし、貴重な歴史資料として末永く大切にお守りしたい」との意向が示され、平成23年7月8日の午後、海吉出村公会堂での引き渡し行事の場面を迎えたのである。

出村公会堂には、床の間を背に二幅のお軸と祭壇が設えられ、金光教本部と地元講連中が向き合って着席し、聞きとりと引き継ぎの行事は午後1時30分に始まった。

出席したのは、金光教本部から金光図書館の金光英子・堀 雄輔、教学研究所の三好光一・児山真生・佐藤道文の5氏、地元からは、最後まで金神講を守った講連中の湯浅利子(長女友子も同席)・湯浅 良・湯浅和子・内田蓉子・大谷祝子の6氏、それに本席の実現に与かった小野田相談役、湯浅照弘信徒の計13名であった。

↑お講の様子の再現 「日々がさら~天地金乃神の項」を清唱する講連中の代表

まず、小野田相談役の挨拶と経過説明の後、金神講関連の一件資料を金光教本部へ奉納することの合意を衆議一決、次いで双方自己紹介をし、講連中を代表して湯浅利子氏が祭壇の前で平素の祭祀の様子を再現して「日々がさら~天地金乃神の項」を清唱、ほどなく御燈明の灯は、百数十年の歴史に終焉を告げるかのように静かに消えたのである。

その後も、金光教側の講連中に対する聞き取り調査が続けられる一方、継承されて来た祭祀の道具や文書(もんじょ)の検証作業が行われた後、これらは昭和初期に金光教本部から拝受したと伝えられる木箱に納められて金光教本部に引き渡されたのである。

明治時代初期のころにはすでに始まっていた月例の庶民信仰「金神講」は、水田に点在する40軒足らずの村を上げての祈りとコミュニケーションのイベントとして少なくとも昭和初期の頃までは伝承されていたようだが、時代の変遷は金神講にも色濃く反映して漸次衰退の一途をたどり、平和と繁栄の平成の今日を迎えるも遂に往時の姿に戻ることはなかったのである。

価値観の多様化、科学万能の現世にあっても、本稿が古きよき時代を忍ぶ縁(よすが)ともなれば幸甚である。

神道金光教会第六番教区金眞組関係資料寄託品目録  教学研究所分(右・中央)金光図書館分(左)

平成23年7月8日 (文:小野田利正、写真:同・村田倫子)

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