歴史を秘めた火の見櫓(ひのみやぐら)
投稿日:2004年8月15日
町内会の中心部(ここは村落の中心部でもあった)に公会堂があり、その敷地の一角に火の見櫓が立っている。
現在のものは昭和初期に建て替えられたようで、それ以前は2本の檜丸太が梯子状になったものがおっ立っていて、てっぺんに鐘がぶら下がっていたのだという。
そういえば、同じようなスタイルの木柱櫓が百間土手の西(現在の南海技研の南)に戦後のころまで建っていたが、これは水防目的のものだった。
話は元へ戻るが、現在の四脚自立式鐘楼は、回廊までの地上高が10メートル、回廊から風見鶏の頂までが約3.3メートルあり、往時はもちろん村いちばんのノッポ建造物だったことは間違いない。
柱頂部には青銅鋳物の半鐘(口径30センチ、高さ45センチ)が吊り下げてあり、戦争中は”敵機来襲!”の警鐘(中部軍情報による警戒警報はカ~ン、カンカン!、空襲警報はカ~ン、カンカンカンカン!)として打ち鳴らされたものだ。
私の少年時の記憶だけでも村内で3件の火事があり、このときばかりは(119番などあるわけじゃなし)メッチャクチャに乱打されていたのを覚えている。
今では、本来の火の見櫓としての使命はおわり、消防ホース乾燥塔ないしは放送塔となってはいるが、こんな立派な火の見櫓は過去~現在を通じて海吉地区はもちろん、富山学区内にも存在した記憶がない。
おそらくは、往時のそれぞれの集落の村人が醵金して、村内にそれぞれのスタイルの鐘楼を建てたものだろうが、もの言わぬ先人たちの遺産=火の見櫓は、火災発生を叫び、敵機来襲を報らせた思い出を秘めながら、静かにしかし泰然として、富める村落の往時を現在に雄弁に伝えてくれている。
(写真、文:小野田)
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