大師堂
出村の大師堂は、丸端台地の一角(岡山市有地)にある。
1958年(昭和33年)の築造で、建坪は木造・瓦葺きの平屋建て約5.5坪、お堂内部には板張り・畳表敷き8畳の間規模の広間があり、西面には間口2メートル・奥行き0.6メートルの祭壇スペースが設けられている。
このお堂には、弘法大師座像がお祭りしてあるが、他にも不動明王立像、丸花虎吉と刻まれた石仏、稚児大師御尊像画、醫王山一畑如来立像も祭壇に鎮座しているが、由緒所縁は不詳である。
正面の扁額には「遍照閣」とあり、仁和寺所縁の上人の揮毫らしいが詳細はわからない。
北壁面には、平成年代に信徒の一人として熱心にお勤めした藤本與春翁(当所東中2組住人)による般若心経の表装額が掲げられ、南壁面には現在の大師堂新築工事中に(当所東組の北根家に)一時移転~安置していた弘法大師座像を、築造成った新大師堂へ納める稚児行列の写真が掲示されている。
昭和33年秋の写真で、詳細は同写真額の裏に説明書きを挟み込んであるが、公会堂にある「昔とみやま写真館」にも紹介がある。
お堂の正面(拝み口)の軒下には扇状の板額があるが、筆者が関心を持った時点では板が黒ずんでしまっていて何と書いてあったのか判読できず、この建物を1文字で表現する文字を考察するに「閣」は恐れ多いとの思いから、熟慮の結果「庵」として掲示し直した。令和3年のことである。
筆者の淡い記憶によると、先代の大師堂は現在のお堂の南西位置(1号倉庫があるところ付近)にあり、南から北に向いて拝むような造りだったが、お堂(と言っても草ぶき屋根の1間かぎりの平屋)の屋根の西半分は、山瀬川の対岸の竹やぶの竹が覆いかぶさっていてなんとも陰鬱な印象のあばら家で、たしか堂守の老婆が一人住んでいたように思う。
前述のように1958年には旧堂を取り壊して現在のお堂を建てたのだが、その費用負担(寄進録)の掛け札が発見されていないことから察するに、恐らく解体労務は“村普請”で、建築必要経費は旧村落当時からの備蓄公費支弁で賄われたものだろう。
筆者が大師堂の管理をするようになった平成6年当時の大師堂は、内・外装はいわゆる“荒壁”(藁を切ったスサを混ぜて土を練り、コマイに塗り込めた壁)で、堂内には壁土片が落ち、壁と柱の間から隙間風が吹き込み、虫やごみも舞い込む始末で、とても居住性の劣悪なお堂だった。
これではならじと、筆者が発起人となって町内有志に資金奉加を呼びかけたところ23万余円の協力があり、これをもって外壁はカラー鉄板で覆い、内装は白漆喰で左官仕上げとすることができた。時に、平成11年12月のことであった。
当時の「工事費寄進者名録」は板に墨書し、お堂祭壇下の伝承函に納めてある。
伝承函といえば、お堂内の戸棚の上には平成24年に閉講した東西講組の「大師講関連用品収納函」と表記したコンテナボックスがあり、この中にはそれぞれ大師講祭祀の関連備品等が収められていて、なかでも両講の「鐘」(文政十年の刻字あり)及び東講組の十三仏等の三幅対のお軸(慶応年間の作、昭和6年再調~令和2年再々調。祭壇下の桐箱に収納)は、出村の来し方を雄弁に物語る歴史遺産の一つに数えられよう。
今までも「出村のお大師様」に信仰と親睦目的で集うお年寄りがいた時代もあったが、昨今は出村大師堂・地蔵堂奉賛会(平成6年に発足)の有志若干名により細々と月1回の祭りごとや堂屋内外の管理がなされているものの要員の高齢化が進んでおり、わがまちの歴史遺産の管理・伝承に手を貸す若者の出現が待たれる昨今である。
世の中には「バチ当たり」がいて、大師堂の賽銭箱が再三被害に遭った。施錠を壊して僅かばかりのお賽銭を盗むのだ。錠前の買い替え代もバカにならず、今では防犯対策で開扉センサーを設置してあるので不用意に扉を壊したり開けようとすると、けたたましい警報音が鳴り響くようになっている。
(文責:小野田)