公会堂
出村公会堂は、岡山市中区海吉中之町1951番地にある。ちょうど町内会のヘソに当たる町の中心地だ。
故事来歴を少し辿ってみると、まず「土地」は代々個人名義になっており、最後は小野田照夫(東中1組の住人=故人)と湯浅廣志(長田東組の住人=故人)の共有名義となっていたが、相続手続きの煩雑と後世の係争を避けるため、北根定夫(東組の住人=故人)等が尽力して昭和62年10月1日をもって岡山市に寄付した。
現在の所有権は岡山市(中区役所総務・地域振興課)で、地目は宅地、地積:242.71m2(約73坪)である。
「建物」はというと、平成6年に「公会堂はいったい誰のもの?」と疑問に思った筆者が登記簿を調べてみると、なんと外便所付きの建物が2件(延べ4棟)登載されており、1件(軒)は草葺き約21坪の平屋、もう1件は瓦葺き約12坪の平屋で、いずれも「居宅」とあり、それぞれに付属建物として「便所」が付いている。
所有権はとみると、前者が海吉70番邸の湯浅秀三郎、後者が上道郡芳野村大字廣谷(今でいう岡山市東区広谷)101番地の尾野勘吉となっていた。
土地の古老にきいてみても、また筆者の記憶でも、登記簿にあるような建物が近年存在した事実はなく、また「湯浅秀三郎」の子孫も特定できなかった。
ただ、広谷の尾野家を訪ねると勘吉(故人)の息子嫁(70年配)がいて、「海吉にウチの家が??」「そんな話は聞いたこともない」とのこと。
公会堂用地の上に、そんな「まぼろしの建物」4棟が登記簿上に現存していることは将来に混迷を招くと考え、これらの建物について「不動産の滅失登記申出書」を岡山地方法務局に提出するよう岡山市に働きかけ、明治24年以来実に105年間も「幻の存在」を続けてきた個人名義の公会堂建物は平成8年に至って消滅したのである。
では「現実に公会堂建物はなかったのか」というと、そうではない。
現在の場所に、木造瓦葺き平屋建て、内便所付き、10畳余りの畳の間、西隣りに倉庫・・・という造りの公会堂はたしかにあったが、幼心にも老朽化が進んでいた記憶がある。
昭和30年代に入り、町内の南方(福吉地区)にあった大きな沼(土地の者はこれを淵〈フチ〉と呼んでいた。現在はオムロン(株)岡山事業所の敷地となっている)が岡山市のごみの最終処分場となり、毎日のようにダンプカーがごみを運んできては淵を埋め立て、「土ぼこりやハエがひどかった」らしい。
そのことへのお詫びや市政協力へのお礼の意味もあって、現在の公会堂は昭和41年に岡山市の経費負担によって(一説では部落所有の共用田を売却して得た資金も投入して)建て替えられたようだが、登記はされていない。
設計・施工は、当地の大工湯浅広吉(樋の尻北組の住人=故人)と湯浅芳夫(東組住人)が担当した。
その建物は木造平屋建てで床面積約83平方メートル(約25坪)、本屋の一部に便所と倉庫、西隣りに倉庫2棟を擁し、平成16年には便所を水洗化して下水道に連接した。
ところで、公会堂の玄関になにやら難しい二文字が彫られた欅板が掲げてあるが、これは湯浅藤四郎(東中1組の住人=故人)が作り寄贈したもので、(本来は右から左へ読むのだが)いま風に書くと「和楽」となる。
筆者の認識に間違いなければ 龢 は「和」の篆書(てんしょ。中国で秦以前に使われていた書体)、樂 は「楽」の旧字で、『和やかに、楽しく』という訓えは、まさにコミュニティの中核となる建物にふさわしい掲示と言えよう。
(文中 敬称略)(文責:小野田)