町内紹介
ごあいさつ

H27/4 第8期会長に就任
[みんなで創る輝くまちづくり]
このたび、女性では初の町内会長という重責を務めることとなりました。「豊かで輝くまちづくり」を目指して、町民一人ひとりと深い繋がりを持ち、大人も子どもも皆と考え、未来を見据えて支え合うまちづくりの推進に力一杯努めて参ります。一人では何も出来ないことを、長年のボランティア活動で体験しました。また皆で成し得た達成感や感動も、そして多くの涙から、地域活動の重要性を学びました。歴代の会長が残された数々の功績、心を込めてつくられた1150世帯余りが暮らす素晴らしい地域を継承し、皆の力と支えで「昨日とは違う今日」をモットーに、喜びを分かち合いながら邁進して参ります。ご支援とご協力をお願いいたします。
町内皆さんのご推薦を戴きまして、このたび赤田町内会長を務めることになりました磯島和久です。 同じ町内ですので、お顔見知りの方も多くいまさらご挨拶の必要もないかと思いますがせっかくの場を与えていただきましたので、一言述べさせていただきます。近年の人口増加都市近郊のいわゆるベッドタウンと呼ばれている地域は、ますます変貌を遂げております。現在の赤田町内会は、1,000世帯を越す幡多学区の中でも一番おおきなマンモス町内会になっております。これも昨年の8月16日にご逝去されました松本友彦前町内会長様が25年間の長年にわたる功績と懇親的なお世話を戴いたおかげで御座います。前会長にひきつづき事業を継承しながらも町内役員の皆さん方と一緒にこれからの町内会の進む道、そして町内の皆様方の安全安心、住みたい赤田を目標に微力ながら頑張ってまいります。町内の皆様方はじめ各班長様、町内の各種団体の皆様方のご支援・ご協力のほど宜しくお願い申し上げまして、簡単でございますが、ご挨拶にさせていただきます。
[就任期間:平成20年4月~平成27年3月] 赤田町内会長 磯島 和久(よりひさ)
新しく電子町内会に参加致しました、どうぞよろしくお願い致します。赤田町内会は幡多学区の北部に位置し北は山陽本線、西は県道中原線、東に岡山市立竜操中学校、南は旧西大寺軽便鉄道に囲まれた肥沃で平穏な農業中心の土地でありました。赤田(あこだ)の地名はいまだにはっきりした謂われは判っておりませんが、赤米が多く栽培されていた処であろうと推察され、赤田人参の名はいまだに残っております。奈良時代に栄えた幡多廃寺塔心礎は、県下一の大きさを残しており町内を取り巻くように有る小さな神社はあたかも宗教を重んじた集落であったように思われます。又町内各所から出土する弥生時代の遺跡(開発により発掘調査)には古代からの栄えを感じます。高度経済発達により、35世帯位であった町内も現在では975世帯(H.16.1)の増加となり今でも住宅建築が続いております。この中にあって、町内会としても多くの方々に電子町内会への入会をお願いして、いかにして会員同士の交流を図るかが今後の大きな課題であろうと考えられます。14班、54組の組織で運営しており、各団体(親子クラブ、子供会、体育協会、農家組合、女子部、消防、老人会)等と協調し、夏・秋の町内祭り、親子三代のグランドゴルフなど町内活動も多くありますが、この電子町内会を通じて皆様方多くのご指導を戴き、福祉重点の町内に貢献できれば幸いと思います。
[就任期間:昭和58年~平成19年8月] 赤田町内会長 松本 友彦
[昭和初期以降歴代の町内会長]
第七期 : 平成20年4月~平成27年3月 磯島和久
第六期 : 昭和58年 ~平成19年8月 松本友彦
第五期 : 昭和46年頃~ 松本延吾
第四期 : 昭和36年頃~ 松本仁十郎
第三期 : 昭和29年頃~ 磯島良雄
第二期 : 昭和26年頃~ 松本弥寿冶
第一期 : 昭和15年頃~ 松本 知
町内紹介:赤田とは?

(竜操中学校を望む)
岡山県の南部にある岡山市、その市の東北に位置する赤田は、山陽本線と操山山系とにはさまれたところに開けた地域です。田畑と住宅が入り混じり、豊かな自然環境に恵まれ、また四季折々の美しさに包まれたところでもあります。
〔地名の由来〕赤田(あこだ)という地名の由来にはいろいろな説があります 。 慶長11年(1606)備前国高物成帳には幡多郷の中に赤田村があります。「あか」ということばに水辺または低湿地という意味があり、岡山市を流れる旭川との関係で水辺に田があったからという説です。また、赤田は砂利が多くて耐水性のない土質のため、畑作が盛んでした。特に人参の産地として知られていました。その人参の赤色から赤田という説です。
町内紹介:幡多廃寺跡
赤田には、創設が7世紀末と推定される幡多廃寺跡があります。寺跡は岡山市東岡山連絡所のある高屋から北へ約七百メートル、赤田百三十番地の田んぼの一隅に野道(九郎稲荷の参道)に添って一辺約七メートルばかりの正方形に近い塔跡を残し、その中央に岡山県下第一といわれる巨大な塔の心礎が露出している。心礎は原位置を動いていない模様で、この塔跡のある田地を塔元(とうのもと)と呼び、その南の田を塔の前(堂の前)と称しているので、寺が規則正しく南面していたことがわかる。また塔元の東の田が塔ノ東、北が黒元、その北に続いた田を大名地と呼ぶ。黒元は庫裡ノ元が転じたのであろうといわれている。塔元の西が久保田、その西にシモク田、コンガラ地、コンガラ畑など、仏教に関連した名前が残されている。塔跡から北へ約五十メートルばかりのところに稲荷社がある。一辺約十五メートルばかりの方形の屋敷で、寺の鎮守であったものか、堂の跡と思われるが、明瞭な遺跡は塔跡だけなので伽藍全体の配置がつかめないため、四天王寺式からみてここが金堂跡とも決めがたい。この寺が秦氏の氏寺だったとの説もあるが、心礎や出土瓦が奈良時代後期を示しているため、氏族の氏寺と決めてしまうことも出来がたいが、この平地に、五重塔、金堂、講堂、僧房その他を揃え、おそらく二百二十メートル四方の寺域をもった伽藍のあったことは事実で、存続期間も相当長かったものと想像される。(幡多学区連合町内会「幡多二千年の歩み」からの引用)
赤田公会堂

郵便ポストと公衆電話







