本文
富山(とみやま)ってどんなとこ?
1 名まえ
現在の岡山市立富山(とみやま)小学校区は、海吉・福泊・円山及び山崎・湊の一部から成り、明治の初めごろには、海吉・福泊は「吉富庄(よしとみのしょう)」、円山・山崎は「幡多郷」、湊は「宇治郷」に属するとされていました。
明治22年、このうちの海吉・福泊・円山・山崎の4村が合併して「岡山県上道郡富山村(とみやまそん)」(吉富の「富」と円山・山崎の「山」をとって命名)となりました。
明治15年に福泊に開校した小学校は、その地に因んで「吉富(よしとみ)小学校」という名称でしたが、この富山村(とみやまそん)誕生と同時に、小学校も「富山(とみやま)尋常小学校」と改称されました。(「学区の沿革」も併せ参照してください)
2 位置
岡山市市街地東方の操山(みさおやま)山系の南麓に広がる、丘陵(一部)から平野(大部分)にわたる岡山市のベッドタウンで、西は東山峠から東は百間川までの東西約4km余、居住区は南北平均約2km余の東西に長い地積です。
3 地勢大観
(1) 山系
岡山市街地東部にある標高168mのなだらかな丘陵=操山山系は、ほとんどが広葉樹の森と竹林でできており、多くの古墳もあって、富山学区全体がまさに歴史と自然の宝庫の山懐(やまふところ)に抱かれて横たわっている・・・という位置関係にあります。
(2) 平地
今から370年ぐらい前まではほとんどが海でした。
昭和40年ごろまでは大部分が水田地帯でしたが、今では住宅化が進み、市街化区域ではほとんどの田んぼが姿を消しました。
4 地域インフラ
(1) 道路
交通動脈に、学区内を東西に横断する県道「岡山〜牛窓線」があります。これは昭和7〜8年ごろ現在のルートに新設され、同時に現在の東山峠も開削されました。
舗装されたのは戦後しばらく経ってからで、それまでは沿道のところどころに「砂利置き場」があり、作業員の人が“岡山県”と大書した旗を立てて、手作業で穴ぼこを修繕していました。
この県道ができるまでは、荷馬車が通れる程度の砂利道の村道が、東は海吉出村から一路西へ、やがて倉安川沿い更に西へ延び、(現在の)富山小学校から石高神社前を通り、円山地内の山裾を経て(現在の)東山峠の上の山中を並走して奥市に至る・・・、古老の話では、そんなカントリーな道を「西大寺の会陽(えよう)の後祭りに出るサーカスの象が、ノッシノシと歩いて通った」そうです。
また、昭和10年代後半から戦後にかけては木炭バスが走っていました。
(2) 河川
富山学区は、今から328年前(平成19年9月記述)に作られた倉安川をおいては語ることはできません。
この川は人工の運河兼灌漑用水路で、築造当時は吉井川から旭川まで一本に繋がっていましたが、現在は百間川で東西に分断されています。
富山学区内でいうと、東は中川町の正木樋門に端を発し(とは言いながら、流れとしてはここが終端です)、海吉(本村〜中村〜出村)〜福泊〜山崎〜円山(の南方)を通り、湊から平井へ至り、やがて旭川へと通じており、学区をズバリ横断する形で横たわっています。
現在では、もちろん運河としての使命は終え、むしろ遊水池のなくなった富山平野の余水を捨てるための放水路として重要な役割を担っています。
(3) 溜め池
富山学区は背後に操山山系を擁しており、治水及び利水の目的から数多くの溜め池があります。
海吉地区の1か所、湊地区の2か所を除くと、そのほとんど(計14か所)が円山地区の山中ないしは山麓に集中しています。
(4) 上水道
富山学区に上水道が引かれたのは、昭和29年(1954年)でした。
福泊の上水記念碑によれば、「総工費464万円、組合員278人」となっています。
※右の画像をクリックすると、別ウィンドウに大きい画像を表示します。
(5) 下水道
平成8年3月、まず山崎地区の一部が供用開始になり、以来逐次敷設工事が進められています。
5 町内会
小は14世帯から大は1,000世帯超までの20個町内会からなっています。(令和5年4月現在)
6 世帯数・人口
令和4年12月末現在、公称世帯6,360世帯、人口は13,671人で、このうち男性は6,412人、女性は7,259人となっています。(「月報・岡山市の統計」 令和5年1月号より)
なお、公称世帯数の一部である「町内会員世帯」の数については <連合町内会〜配布物所要数> を参照してください。
7 観光スポット
昔は海だった・・・こともあり、古墳や旧跡はみんな操山山系の中か、その山裾付近にあります。
8 年中行事
学区の各種団体が主催する行事には、操山ウォーク、学区民体育大会、各種球技大会、文化まつり、敬老会などがあり、また、各町内会計画の盆踊りや秋祭り、さらに各種同好会の集いや催しなどが盛んに行われています。