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学区の沿革

現在の富山学区は、東から海吉・福泊・山崎(一部)・円山・湊(一部)の5個町内からなっているが、湊町内及び山寄りの地区を除いてはほとんどが新田開発地(干拓地)である。

操山山系の南麓にヒタヒタと波が打ち寄せていた(今から約370年前の)ころ、すでに山麓の海岸線には集落があって先人たちが生活をしていたであろうが、下表は干拓によって「新田」が生成されていった過程を文献からピックアップしてみたものである。

この表には、現在の富山学区の町名しか載せていないが、小学校区ということで言えば、学区制が見直されるまでの富山学区には山崎の全域が含まれ、更に倉益・倉富・湊も含まれていた。

【富山学区の干拓地変遷表】

【富山学区の干拓地変遷表(その1)】 【富山学区の干拓地変遷表(その2)】

出典 (原書には当然旧国字=國、圓、繪などが用いられているが、ここでは当用漢字で表記した)
  • 新田の生成及び村から市への変遷は、主として「岡山市の地名」(岡山市地名研究会編)に拠った。
  • 円山村の富山村編入時期は、(同書の記述=昭和22年は誤記と思われ)岡山市の町名住居表示係とも協議して「明治22年」とした。
  • 備前国図(1596〜1615年、池田家文庫)に、海面村、円山村、湊村の記述がある。(※1)
  • 備前国九郡絵図(1624〜1644年、池田家文庫)に、海面村、円山村、湊村の記述がある。(※1)
  • 上道郡絵図(1661年、池田家文庫)に、海面村、円山村、湊村の記述がある。(※2)
  • 沖新田東西之図(岡山市立中央図書館蔵)
  • 備陽記(1721年編)
  • 上道郡誌(昭和48年=1973年5月16日発行)に、『備前国高物成帳(1605年=慶長10年)に「吉富荘〜海面村」、「幡多郷〜円山村」、「宇治郷〜湊村」等の記述がある』とある。(※1)
〜 後 記 〜

備陽記に次のような記述があり、いつの時点での集落規模かは詳らかでないが、これらは新田開発がなされ、やがて入植がはじまり、収穫が緒についたであろう頃の集落風景を彷彿とさせるものとして興味深い。

海面村:117軒〜807人、福吉新田:5軒〜34人、福泊新田:22軒〜119人、山崎新田:17軒〜100人、円山村:74軒〜474人、湊村:116軒〜725人

この「学区の沿革」を著すに当たり、新田開発当時に遡って考察を試みたが、海から陸へ、そして農地へと開発を辿る歴史の生き証人はもとより存在せず、史実(文献の記述)に拠らない部分は敢えて想像で補うことはしていない。

したがって、読者には釈然としない思いもあろうが、来し方の空白部分に思いを巡らせるのも、また、壮大な歴史ロマンと思し召しいただきたい。

資料提供並びにご指導を頂いた安倉清博、湯浅照弘の両氏に深甚の謝意を表します。

平成25年(2013年) 記

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