< 第 39 回 > 岡山市 牟佐地区の 風土記(2)    平成20年4月1日
文 責 : 寺阪 彰郎

       

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 1.「 牟 佐 」と 古 代 山 陽 道

古代山陽道の標識と思われる
古代山陽道の標識と思われる  (写真 : 安藤 洋一)



律令国家の地方行政区分の内、各国府を連ねる官道が定められ、山陽道は唯一の大道として、九州を総管する主要路とされた。
官道は 都から放射線状に各国府を連ねるように設けられた。

古代山陽道は 備前の国中に、坂長−珂磨−高月(馬屋)−津高の四駅が設けられ、各々駅馬が置かれ 機能した。

牟佐は旭川の渡河点として 重要な存在であったと考えられ、中世にも源平盛衰記、日本戦史等にも登場する。
旭川が 山間部から岡山平野への流出口として、川幅の変動が少ない地点として、大正時代後期まで 渡船場が存在した。
(一説に備前国府を通過するために、高月―牟佐−矢津峠―備前国府―三野−備中国府の路線もある。)




 2.高 蔵 神 社 の「お と う や さ い」


古くから杵舞行事のある高蔵神社の「おとうやさい」が行われてきた牟佐は、かなり裕福な農村で 戸数は二百戸余、稲屋(とうや)を担当した家は 約四十戸といわれている。

「向山と地蔵」「鳥井と太戸」「本村」「渡場と林原」「西条と市場口」の五組により、各くるわが 毎年輪番で稲屋主をきめた。
この稲屋祭は 十二月十三日から十八日迄行われ、最終日に杵舞行事が催された。

戦中戦後は中断されていたが、昭和三十一年に 市史編纂資料作成のため、地蔵の植田千弘氏宅で杵舞行事が復活された。

それ以降は 経済的な面と農家の減少にともない、従来の形の稲屋祭は行われなくなり、毎年稲屋主が順番に引継がれて全ての神社行事に参画し、稲屋祭は十二月十五日に稲屋渡しの神事が、神主、奉賛会、新旧稲屋主により催されている。
(杵舞については、“日本の民俗“岡山に所収されている)



おとうや渡しの儀
おとうや渡しの義  (写真 : 安藤 惣一郎)


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