< 第 35 回 > 岡山市 下牧上谷 地区の 風土記(2)  平成19年12月1日
会  長 宇野 純司
文 責 宇野 修

       

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 1.高 瀬 舟 の 里

高瀬舟は、川や浅海を 曳舟や帆走する船底の平らな 木造船です。
かつては、旭川、吉井川、高梁川で交通の主役でした。
江戸時代から昭和初期までは、ほとんど全県域を通船範囲としてカバーしていました。


下牧上谷地区も 旭川沿いに集落が発達しており、高瀬舟の寄港地として栄えました。
村には14隻の舟があり 舟持ちの問屋などがありました。(備陽記より)


通常 高瀬舟には 3人が乗り組んでいます。
へさきにいて 櫂(かい)で舟を進めるのが「先のり」。
舟尾で 流れがゆるやかなところでは 艫(ろ)で舟を進め、急流では舵(かじ)で進路を誤らないようにするのが「跡乗り(あとのり)。
中央で 風向きによって帆を操作するのが「中乗り」と言われました。

乗員には、下りでは 急流で岸壁や岩にぶっつけない操船技術が要求されます。上りでは 流れにさからって舟を進める操船技術と重労働が要求されました。

しかし重量貨物を陸送するには 馬か人足によるしかなかった時代に、最大で馬100頭分の荷を わずか3人で積下ろした高瀬舟は、内陸とくに中国山地の人達にとって 生活がかかった重要な交通手段でした。

下りの一艘が積んだ荷は 4〜10トンですが、上りでは あまり荷を積まず、平均1トン程度でした。

下りの積荷は 最も重要な米(江戸時代には年貢)、そして炭、薪、鉄等を、上りには塩、油、畳表等の 日用雑貨を積んでいました。

高瀬舟が荷を満載して、しぶきを浴びながら急流を下っていく姿は 勇壮でしたが、逆に上っていく姿は のんびりしたものでした。
しかし のんびりと見えるのは舟を見ている人だけである。
落合から岡山まで1日で下ったところを、上り舟では 流れにさからって 引き上げるので、4日もかかりました。
金川・福渡・西川に泊まって 4日目の夕方に 落合に帰りついたのです。

上りは、風があって帆だけで進むときは別として、普通 親方だけが舟に残ります。
親方は 棹(さお)を川底につき立てて舟を進め、小船頭は 川岸を歩きつつ 綱で舟を引きました。
その歩く道は、「船頭通」と言って、なるべく水には入らないで歩けるように 石が並べられていました。
前かがみになって、エイッチラ、エイッチラと引いて 上ったのです。

大変な 重労働でした!!


ここ下牧上谷地区の 先輩の多くの方々は、この 高瀬舟による稼せぎで、生計を立ていました。

かつて この地区で、親方船頭をしていた家には、明治29年に発給された 営業鑑札 ( 岡山県御津郡役所 発給 ) が 残っています。
また 覚帳には、当時の船賃が載っております。
高瀬舟で使用していた 「 いかり 」 や 「 ランプ 」、そして 「 艫 (ろ) 」 なども 保存されていました。

今では 目にすることも少ない 貴重な資料です。




   


営 業 鑑 札

高瀬舟の イカリ
高 瀬 舟 の い か り

高瀬舟の 艫(ろ)
高 瀬 舟 の 艫(ろ)


高瀬舟で使っていたランプ!
高瀬舟で 使っていた ランプ



 2.高 瀬 舟 の 遭 難
川に浮かぶ、高瀬舟の風景
高 瀬 舟 の 遠 望









高瀬舟
高 瀬 舟 の 寸 法 図








 (牧山校百年誌からの参照)

明治40年の事で、日時は不明です!

牧山校6年生の岡山方面への修学旅行に際して、舟主(下牧上谷の人)から 高瀬舟への便乗が許されました。

そして旅行当日の旭川下流での出来事です。
舟には 親方船頭1名、小船頭2名、そして 引率の校長 他 生徒21名が乗船していました。

遭難場所は、岡山市四日市町の東です。現在の御野で、岡山市上水道取水場付近でした。
第17師団の設置に際してトロッコ専用の木橋が、旭川を横断して架設されていました。
さらに その下手には、工兵隊の作業場がありました。

高瀬舟には 薪炭材、莚(むしろ)等が満載されており、中央の一部に 生徒達が乗せられました。

当日は 宵の雨で増水、濁流・渦巻きが 物凄い中を 舟も威勢よく走りました。
この舟が 岡山城を目前にして 前記の木橋の橋脚に激突したのだから 如何せん!!

衝突の反動で、舟尾で行動していた2人の小船頭と上部の積荷が共に河中に飛ばされました。
舟が次第に傾斜し、濁水が舟尾より入りだしました。

女生徒は 泣き叫び、男子は水に飛び込まんとあせり、悲惨な状況になってしまいましたが、工兵隊が鉄舟で出動し、辛くも全員救助されたのでした。

生徒が道路に出たときは、土地の人が衣類・救援具を携えて参集されつつありました。
この中を 土地の方の誘導で 御崎宮に引き上げ、濡衣、昼食等に万全を期していただきました。

これはみな 四日市の人の斡旋によったものだと思います。

この後 生徒等は、岡山公園・五百羅漢を見学して 帰途につきました。





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