牟佐と呼ぶ地名を考えると、その周辺の地名と比べてみると なにか曰くがありそうです。
赤磐郡誌には「身佐村主(むさすぐり)」は 呉の帰化族で、大和の高市郡牟佐坐(むさいます)神社の地より起こると、簡記されています。
牟佐村主とは「日本書記」雄略天皇二年の記録に 史部身佐村主青とあり、身佐は牟佐と同意語で、古墳時代に 大和の高市郡(現橿原市)の牟佐坐神社の地に住んだ人たちが
移住した土地であったと推考されます。
古墳文化の発展する時代で、或いは牟佐大塚古墳等の造築に従事した人々ではないだろうかと思われます。
「源平盛衰記」巻三十三には妹尾兼康が、西河(旭川の別称)裳佐の渡を打渡り云々。 とあり、中世の戦記類にも 度々見られる地名です。 (記:寺阪 彰郎)
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