< 第 19 回 >  岡山市牟佐地区の 風土記     平成18年8月1日
 記 : 寺阪 彰郎・安藤 惣一郎
  
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 1. 牟 佐(む さ)の 地 名 


牟佐と呼ぶ地名を考えると、その周辺の地名と比べてみると なにか曰くがありそうです。
赤磐郡誌には「身佐村主(むさすぐり)」は 呉の帰化族で、大和の高市郡牟佐坐(むさいます)神社の地より起こると、簡記されています。
牟佐村主とは「日本書記」雄略天皇二年の記録に 史部身佐村主青とあり、身佐は牟佐と同意語で、古墳時代に 大和の高市郡(現橿原市)の牟佐坐神社の地に住んだ人たちが 移住した土地であったと推考されます。
古墳文化の発展する時代で、或いは牟佐大塚古墳等の造築に従事した人々ではないだろうかと思われます。

「源平盛衰記」巻三十三には妹尾兼康が、西河(旭川の別称)裳佐の渡を打渡り云々。 とあり、中世の戦記類にも 度々見られる地名です。  (記:寺阪 彰郎)


牟 佐 地 区


 2.高 倉 神 社 本 殿

牟佐の北方 高倉山の南面中腹に鎮座し、祭神 は天香山命、天火明命の2柱です。
高倉山頂には 磐境の遺構の巨岩があります。 古来の神社の形態を伝える辺つ宮の拝所が鳥井地区にあり、市重文に指定されている石鳥居 の扁額が保存されています。
扁額には「正慶元年」銘で「正二位高蔵大明神」「大願主国造神主上道康成」と刻まれ、古代の豪族の上道氏の祭批祀した神社であったことがしのばれます。

杵舞で知られる稲屋祭について記した幕末の国学者平賀元義の「杵舞記」によると、当社は雨乞霊験があることで古くから知られ、中世は赤坂郡高月郷の総鎮守であったといいます。
稲屋祭は 11月15日・16日に行われ 杵舞行事があったが、現在は稲屋行事のみが12月15日に行われています。

本殿の造宮についての安永4年(1775)の棟札が保存されているといいます。 (記:寺阪 彰郎)




高倉神社本殿


 3.牟 佐 大 塚 古 墳


牟佐大塚古墳


大型横穴式石室墳、国指定史跡。
古代の山陽道と旭川の交又地点を支配する所に位置しています。
径約30メートル、高さ8.6メートルの円墳が現状ですが、築造当時の墳丘はかなり大規模なものと想像されます。
両袖の石室は花崗岩で3段積みされ全長18メートル、玄室長6メートル、幅2.8メートル高さ3.2メートル。玄室中央長軸に並行した長さ2.88メートル、幅1.8メートル、高さ1.5メートルの巨大な刳貫家形石棺は、45キロメートル西方の 井原市浪形山産の貝殻石灰岩が安置されています。

伴出遺物が不明であるが、巨石墳としては 吉備地方でも屈指とされています。
 
                  (記:寺阪 彰郎)



 4.太 戸 の 滝
滝の上段から下段までの長さは、約100メートルはある見事な滝で、上段まで登ると展望台があり、この展望台から望む、最上部から流れ落ちる滝は絶景です。

平成15年4月に「太戸の滝を守る会」を発足し、ボランティア会員によって滝周辺を整備しており、「市民が憩える新名所」にしたいと頑張っております。

みなさん 森林浴に是非訪ねてみて下さい。
場所は、牟佐スポーツ広場より300mのところです。
   (記:安藤 惣一郎)








太戸の滝



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