<第7回>   「岡山市玉柏 平瀬地区 の 風土記」     平成17年8月1日
                 町内会会長 : 小野  保   
                 文 責 : 太田 吉彦
  
 1.牧石のへそは平瀬!     

緑深き山々と旭川の清流に囲まれた平瀬、玉柏、そして牧石。

我町 平瀬は昭和27年まで岡山県御津郡牧石村大字玉柏小字平瀬であった。その年岡山市と合併し現在に至っている。

「地図は現地ではない」という言葉があるが、立体的に見ても平瀬は牧石、玉柏のへそである。
ただ最近の市販の地図には平瀬は載っていない。しかし一部地図には今でも、原、平瀬、河本と記載されている物もある。

現在も平瀬にはさしたる名所旧跡はないが、小学校、郵便局、警察、支所、幼稚園、農協、コミュニティハウス等が集中し、文教地区である。



平瀬地区とその周辺
平瀬地区とその周辺



 2.昔 牧石は平瀬であった


古くは和名抄に備前国御野郡六郷の一つとして平瀬郷の名が見られ、室町時代の「足利義教御教書」にも備前国出石郷、平瀬郷の地名がみえる。

池田光政の名のある「備前国九郡絵図」には河本村の地域に「平瀬村」の地名がある。

又、「温故秘録」は河本村は古名は平瀬村であり、平瀬七村というのは、宿、小室、原、河本、平瀬、宮本、中原をいい、平瀬の古名は一打村といい、更に古くは枚石郷(ひらし)と言ったらしい。
枚石と書いて「ひらし」と呼んだのがいつの頃からか「ひらせ」となり平瀬の文字になったと記述されている。
つまり古い時代の一打村を中心とした広い地域が郷の名の枚石がなまって平瀬村となったのであろう。

平瀬地区は河本地区より農地の生産力は低いが、洪水などの心配のない安定した生活の場で歴史は古い。
「備陽記」の「平瀬七村」については平瀬村が中心となってその他の地の開発を行い、ある種の共同体意識を持っていたためこの言葉が残ったのであろう。

時は流れ、明治8年(1875)河本村は枝村平瀬、宮本を合併し玉柏村となった。その名称は古歌にある三野山(笠井、金山、半田山)の玉柏からとったという説もある。

同22年玉柏、畑鮎、金山寺、中原、原の村々を合併し牧石村となった。牧石は古名の牧石郷からとったのである。


 .牧 石 小 学 校


牧石小学校(昭和36年)

牧石小学校    昭和36年


牧石小学校の歴史は古く、明治8年各部落の学校を合併し玉柏2251番地に、玉柏小学校を開校した。

現在でも平瀬に学校屋敷と呼ばれる所がある。
現在の地に移転したのは昭和2年の2月である。


 .役 場 

旧役場は、昭和9年頃まで平瀬の山裾、旧山陽道ぞいにあり、現在は川上邸として現存している。

玉柏村 旧役場 (現 川上邸)
玉柏村 旧役場 (現 川上邸)


 5.和 裁 学 校

旧和裁学校の旧宗定邸 (現 須一邸)
旧和裁学校の旧宗定邸 (現 須一邸)

和裁学校の碑
和裁学校の碑


西山の川沿いに旧宗定邸(現在 須一 邸)があり、ここで明治21年に手芸学校が開校した。
和裁学校として800人の卒業生を送り出した。まさに現代のカルチャーゾーンである。


この地に神社仏閣こそないが、この平瀬は先撻の残した、教育、文化の跡がみられ現代に脈々と引き継がれている。

今日も小学校に通う元気な子供達の声が響く。
この子供達の未来のためにも、平瀬、玉柏地区のつつがなき発展を祈ってやまない。



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