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橋本町の由来
資料は『岡山市の地名』より引用しました
 『京橋御門について』と『京橋渡り初めについて』は小串連合町内会様のご厚意により提供して頂きました『わがふるさと小串』より引用させて頂きました。






橋本町(現、京橋町)由来その四

木屋
 現在の木屋
 幕末の有力商人として、佐々木・武田両家などのほか、別改扶持人の益野屋右左久・小豆島屋清左衛門、別改の木屋清七郎らがいた。木屋は享保(1716〜36)以降、家伝のびんつけ油・水油・香油を製造し木屋丁子香の名で有名であった。

 別改は、宗門改めの文章を名主などの町役人を通さないで、直接町奉行に提出できる格である。別改扶持人は、別改のうち献金などの功績によって藩から扶持をもらっている町人である。
 貞享元年(1684)の町の面積は九反九畝(岡山町中御検地畝高地子帳)。嘉永七年(1854)の戸数は七三戸、人口は一六二人、うち男七八人、女八四人であった(岡山市史)。
 京橋の橋本町側には大門があり、門の南に接して高札場があった。門は柱の間隔が一丈三寸(約三・一メートル)あり、およそ晩の八時ごろから朝の四時ごろまで閉めた。その間は脇の小門をくぐって出入りした(国富家文書)。高札場は主に藩の触れを掲げたが、寺の開帳の知らせなどの辻札も、藩の許可を得て立てる場所があった(真光院文書)。江戸初期と思われる『御野郡絵図」(池田家文庫)には橋のたもとに一里塚が描かれている。



 『岡山市の地名』より 原文のまま
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