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橋本町の由来
資料は『岡山市の地名』より引用しました
 『京橋御門について』と『京橋渡り初めについて』は小串連合町内会様のご厚意により提供して頂きました『わがふるさと小串』より引用させて頂きました。

今村宮の由来

今村宮
今村宮
 今村宮は、正慶二年、今村の開拓者たちによって新しい村の鎮守として祭られ、はじめは八幡宮と称した。天正八年(1580)、宇喜多秀家が岡山城を拡張する際、城内の榎の馬場にあった三社明神(建武元年勧請、天照・八幡・春日を祭る。三社宮、三社八幡宮ともいう)が祠官の今村傳兵衛の薦めで今村の八幡宮に移されて合祭、今村宮と改められた。同九年、秀家は社領一〇五石を、慶長九年(1604)池田利隆は社領五石を寄進した。氏子が今村の外、旧城下町に多いのは、このような今村成立の事情による。

 旧暦正月一四日には粥釣りの神事が伝えられており、粥と一緒に炊き込んだワラシベの中に入った米粒の数によって豊凶を占う。末社に三宝荒神、屋敷荒神、弁財天がある。また三月二四日の黒住教の教祖祭には御神幸をうけた。これは教祖黒住宗忠がもと今村宮の禰宜であったことによるもので、今村宮に対して鎮座の報告と神恩に報いる意味で行われるものであった。

『岡山市の地名』より 原文のまま
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