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橋本町の由来
資料は『岡山市の地名』より引用しました
 『京橋御門について』と『京橋渡り初めについて』は小串連合町内会様のご厚意により提供して頂きました『わがふるさと小串』より引用させて頂きました。






橋本町(現、京橋町)由来その二

 町内の横丁に川手の町・西橋町があった。川手の町は旭川沿いにあり、西橋町は町の西端の南北の道に沿った東片側の町であった。道の西側は西大寺町に属した。別名は茶町で煎茶を商うものが多くいたために名がついた。(温故秘録)

戦前の京橋付近です。
 戦前の京橋付近です。
 橋本町は東から陸路で城下町の郭内に入る玄関口であった。水路では海船・高瀬舟の船着場で、交通の要であった。『備陽記』によると、岡山に海船七二隻・河船八六隻、計一五八隻の船があった。これらは京橋を中心とした城下の川岸を拠点にしていた。長岡藩士河井継之助は、安政六年(1859)備中高梁藩の漢学者・山田方谷に入門するため岡山を通ったが、京橋から四国には毎日便船があり、大阪へも一・六の日に船が出たと、旅日記『塵壷』に書き留めている。

 町人町として区分は、江戸時代を通して格の高い内町に属し、江戸中期以降の町組みでは中組の頭町であった。宅地の税・地子の高は、西大寺町と並んで最高であった。
多くの有力商人が集まって栄えた。天明八年(1788)調べの問屋は一九軒、株は諸問屋一七・塩六・炭四・薪三、計三〇あった。数は川崎町に次いで第二位で、諸問屋株の多いのが特徴である。寛政五年(1793)の史料では両替商二軒があった。



 『岡山市の地名』より 原文のまま
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