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福居夜話 第4話 天津神社 その3 〜 御祭神 〜

 

(1) 記紀等の中の少彦名命
(2) 少彦名命と五條天神 
(3) 小男の草子と少彦名命

はじめに

 天津神社の御祭神(ごさいじん)は、少彦名命(すくなびこなのみこと)と言われる神です。どのような神なのでしょうか。やはり、記録等を参考にしながらこの神についてもみてみたいと思います。

 まず、『岡山県神社誌』(昭和56年(1981))を使って、少彦名命を御祭神としている神社が岡山県内にどのくらいあるかを調べてみます。
 この資料には、県内の1,626の神社が掲載されていますが、そのうち、少彦名命を御祭神としている神社は63社あり、全体の3.9%です。さらに、少彦名命だけを御祭神としている神社を調べてみると、天津神社を含め4社しかありません。少彦名命は、かなり少数派に属する神のようです。
 こういう結果がわかると、どのような神様なのかに加えて、なぜこの神を御祭神とするようになったのかについても知りたい気持ちがわいてきます。

(1)記紀等の中の少彦名命

 『古事記』や『日本書紀』では、少彦名命は、大国主命(おおくにぬしのみこと)と協力して、葦原の中つ国(国土)を造り固める神として登場します。
 まず、『古事記』の少彦名命が登場するくだりです。

 「さて、大国主神(おおくにぬしのかみ)が出雲の美保の岬にいらっしゃいますときに波の上から蘿摩(ががいも)の船に乗り、鵞鳥(がちょう)の皮をまるっぽ剥いだ着物を着て、こちらにやってくる神があった。
 そこで、大国主神がその名を問うたが、その神は答えようとはされなかった。従っている家来の神々にお尋ねになっても、一同「存じません」と申すだけだった。」(『古事記』梅原猛。以下同じ。)

 右の図で、波の穂の上に小さい船に乗った神が見えます。拡大図(図をクリック)を見ると、左に描かれた大国主神と比べて、大きさの違いがよくわかります。この神は、海の向こうから、体の小さい姿で現われてきました。しかも、大国主神が名前を聞いても答えず、周りの神々も皆知らない正体不明の神でした。
 その後、この神は、神産巣日神(かむむすひのかみ)の御子の少彦名命(『古事記』の表記は「少名毘古那」(すくなびこな))であることがわかります。

 「神産巣日神は、『間違いなく、これはわたしの子です。多くの子の中でも、わたしの手の指から洩れ落ちた子です。いまから、葦原色許男命 [あしはらしこおのみこと、大国主命のこと。] と兄弟になり、おまえは、この国を造り固めなさい。』とおっしゃった。」(同上)

 この神が神産巣日神の指の間から洩れ落ちたところは、「手間(てま)」と言われ(『雲陽記』享保2年(1717))、その場所は、宍道湖から海に流れ出る大橋川の川中にある塩楯島(しおたてじま)という小さな島とされています。この島には、少彦名命を御祭神とする手間天神社(てまてんしんしゃ)があり、島全体が社地になっています。

 さて、それから二柱の神は、協力して国土を造り固めるわけですが、『日本書記』では、その様子が次のように記述されています。

 「さて、大己貴命*1と少彦名命とは力をあわせ、心を一つにして天下を経営された。またこの世の青人草*2と家畜のためには療病の方法を定められ、鳥獣や昆虫の災異を除くために、まじないはらう方法を定められた。だから百姓(人民)*3は今に至るまでみなこの神の恩をうけているのである。むかし、大己貴神が少彦名命に向かって、
 「おれたちのつくった国は、はたしてよくできたといえるだろうか」と語られると、少彦名命は答えて、
 「できたところもあるし、できていないところもある」と仰せられた。
 この二はしらの神の相談には深い意味があるらしい。その後、少彦名命は、熊野の御崎に行かれて、そこからとうとう常世郷(とこよのくに)に去られた。〔別伝では、淡島に行かれてそこで粟茎(あわがら)にのぼられたところ、はじかれて常世郷に渡り着かれたという。〕」(『日本書紀』井上光貞監訳)
 *1 大己貴命:おおあなむちのみこと。大国主命のこと。
 *2: 青人草:あおひとくさ。国民
 *3: 百姓:ひゃくせい。庶民

 少彦名命は、海の向こうからやってきて、大己貴命と協力して国土を造り固めると、また「常世の国」に渡ってしまわれるという神ですが、人々と家畜のために療病の方法を定め、鳥獣や昆虫の災異を除くために、まじないはらう方法を定められたというくだりは、少彦名命について述べられるときに、繰り返し引用されるところです。大己貴命と少彦名命が医薬の神、農耕の神、あるいはまじないの神とされる所以の箇所でもあります。

 記紀おいて、次に少彦名命が登場するのは、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと。神功皇后)が太子(後の応神天皇)にふるまう酒を用意されたときの歌の中です。

 「この御酒(みき)は、我が御酒ならず、酒(くし)の司(かみ)、常世に坐す 石立たす 少な御神の(以下略)」

 「少な御神」が少彦名命のことです。酒の司で、常世に座し、「石立たす」ところから、酒造りの神、常世の神、石に現れる神とも言われます。
 それから、少彦名命は、各地に残る風土記にも登場します。一つ一つは引用できませんが、『出雲国風土記』や『伊予国風土記逸文』等の少彦名命に関する逸話から穀物の神温泉の神ともされています。

(2)さらに少彦名命はどのような神か 〜 少彦名命と五條天神 〜

 さて、以上は、記紀等に出てくる少彦名命についての話でしたが、天津神社に関する記述を手がかりとしてもう少し探ってみます。何度か取りあげている『吉備温故秘録』の津島村及び福居の「天神社」についての記載部分をみてみましょう。

 「天神社 少彦名命 津嶋村 祠官 藤井氏
   京都五條天神と同じ。委しくは邑久郡に記す。(以下略)
  天神社 同村枝福居 神職大工町 大賀氏。 本村天神と同じきかと云。一説に式内神とも云。」

 「津嶋村」天神社の記載部分をみると、「京都五條天神と同じ。」とあります。これは他の資料にはない言及です。京の五條天神と聞くと、義経の逸話を思い出しますが、どういうことなのか、「委しくは邑久郡に記す」とありますので、その箇所を確認してみると、五條天神について次のような内容の由来が記載されています。

 「五條天神神代巻に、次のようにある、
 大己貴命は、少彦名命とともに、天下を経営された。国民や家畜のために、療病の方法を定められ、又鳥獣や昆虫の災異を除くために、まじないはらう方法を定められた。それで庶民は今に至るまで皆その恩顧を受けているのである。思うに、少彦名命は、高皇産霊尊*1の子である、即ちこれ五條天神である。今毎年節分には、人は皆この神社に詣、餅と白朮[オケラ]を得て疾病除けをするが、これは神代から伝えられてきた慣わしであろうか。
 天皇のご病気、あるいは世間に疫病*2流行などの騒動が起こったとき、五條天神宮に靫*3がかけられる。鞍馬山に負靫明神があるが、これもまた靫がかけられる神である。昔勅勘*4を受けた者の家には、靫がかけられた。そうなると、人の出入りはできない。その靫は、看督長*5が背負っていたものである。」(原文は、漢文)
 *1 『日本書紀』では、少彦名命は、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の御子とされている。
 *2 疫病(えきびょう):「流行病、伝染病、はやりやまい、えやみ」(『大辞林』)
 *3 靫(ゆき又はゆぎ):「矢を入れて背に負う筒状の道具」(同上)
 *4 勅勘(ちょっかん):「天皇からのとがめ」(同上)
 *5 看督長(かどのおさ):「平安時代、検非違使の属官として、牢獄の管理や犯人の追補などにあたった者」(同上)

 「五條天神」は、京都市下京区にある「五條天神社(五條天神宮)」のことです。又、五條天神神代巻云々は、『本朝神社考』(1638-45。林羅山)からの引用です。

 神社前の案内には「祭神として、大己貴命・少彦名命・天照大神を祀る。」とありますが、上記の「少彦名命…即ちこれ五條天神」という記述から、かつては、少彦名命が主祭神だったかも知れません。
 社伝は、度重なる火災で焼失したため、由来の詳細は不明ですが、「最初は光仁天皇(七七〇-七八一)が大和宇陀に祀られていたものを、桓武天皇による平安遷都の際に五条の地に移され、天使の宮と崇め、後に後鳥羽院の時に五条天神宮と勅称された」(『京の民間医療信仰』p.79)という言い伝えがあります。

 節分に人々が五條天神に詣て、[勝の]もちと白朮(オケラ)を買い求め、疾病除けをしたというくだりは、医薬やまじないの神である少彦名命を御祭神としていることに由来すると思われます。節分は、立春の前日にあたり、今では、豆まきをして、悪鬼の退散と招福を祈念しますが、当代は、節分に五條天神で買い求めたもちを食べ、オケラを焚くことが京の人々の慣習で、それによって節分の夜に夜行する悪霊や疫病の神を退散させ、同時に福徳が到来すると考えられていたようです。(ここをクリック

 なお、「天神」の読みですが、神社では「眞とすんで読むべし」とされていますので、「てんじん」ではなく「てんしん」と読みます。菅原道真の天神様と区別するためのようです。

 さて、引用の中で確認が必要と思われる部分を下線で示しています。
 まず「疫病」ですが、これは今でいう伝染性の感染症のことです。古来より疱瘡、麻疹、赤痢、傷寒(腸チフス等)等の流行が記録されています。疫病が流行すると多くの人命が失われるため、国をあげて疫病の退散に取り組みますが、その方法は、寺社に仁王経や般若経の転読を命じるなどの神仏の加護に頼るものでした。この疫病退散に五条天神が独自の役割を果たしたとされます。

 次に「靫がかけられる」というところですが、『日本国語大辞典 第3版』に「靫懸(か)く」の説明として「勅勘などを受けたとき、閉門謹慎のしるしとして、その家の門口に検非違使が靫をかけて出入りを制する。平安時代末ごろ行われた。」とあります。
 「靫がかけられる」ということは、天皇からのとがめを受けて、閉門謹慎に処せられたしるしということですので、五條天神に靫がかけられる、ということは、「天皇のご病気、あるいは世間に疫病流行などの騒動が起こったとき」、五條天神は天皇のとがめを受けて、閉門謹慎に処せられたということになります。しかし、神が人間と同じ罰をうける、これにはどういうわけがあるのでしょうか。

 そのわけをみる前に、もう一つ五條天神が勅勘を受けた事件を紹介します。
 それは、室町時代中期の応永28年(1421)に、五條天神に流罪の宣下が下されたという事件です。
 当時の日記(伏見宮貞成『看聞日記』)によると、この年は、年明けから全国的な飢饉に見舞われ、京都では餓死者も数知れなかった上に、春から疫病がひどく流行し、万人が死去する状況だったようです。そしてこの年の4月23日、五條天神を流罪にするという天皇の命令が下され、その命令を伝える勅使が五條天神の本社である祇園社へ使わされたのでした。

 それでは、五條天神に「靫がかけられる」「流罪が宣下される」とは、どういうことなのか、瀬田勝哉氏は、次のように述べています。

 「神社に靫を懸けるのは、神を罰すること自体に目的があったのではない。天皇の病や疫病流行、それによる死などの穢、さらにそれらを引き起こした罪の一切合切を、『勅』つまり天皇の名において両社*5に背負わせ閉門する。それはもう一方で、病気本復、疫病退散といった元の正常な状態への回復、再生を期待し、あるいは意図した儀礼だったのである。五條天神や鞍馬靫の明神は、こうした穢や罪を一身に背負い込み、天皇から罰をうける特異な神として、かえって社会的に承認されていたといえよう。
 このような確認の上に立ってみると、実は応永二十八年の流罪宣下も同じ構造を持っていることに気づく。(中略)
 五條天神はこうした厳しい罰を受けつつ、衰退するどころか、よりいっそう病の神としても注目を浴びることになったというのが私の見方である。」
 *5 五條天神社と靫の明神(靫大明神。現在の由岐神社)のこと。由岐神社の御祭神も大己貴命と少彦名命。

 つまり、五條天神に「靫がかけられる」「流罪が宣下される」のは、天皇の病や疫病流行の際に、病気の平癒、疫病退散を期する儀礼的な対応だった、五條天神は、天皇の病や疫病流行を防ぎ得なかった罪で罰せられるが、そのことによって、元の状態への回復、再生、すなわち病気平癒や疫病退散を期待されたということのようです。
 五條天神は、勧請により地方に広っていくわけですが、その時期について瀬田氏は「証拠はないが『義経記』の流行する室町時代こそその時期として最もふさわしい。」と述べています。

 以上が歴史上に現れた「五條天神としての少彦名命」のありようですが、もしかしたら、『吉備温故秘録』の著者は、津島村の天神社について五條天神からの勧請を想定したのかも知れません。そう考えると、勧請の理由について推測する糸口が得られたような気もしてきます。

(3)さらに少彦名尊はどのような神か(続) 〜 小男の草子と少彦名命 〜

 少彦名命は、記紀等において体が小さい姿で登場したことから、御伽草子の「一寸法師」の原型とも言われます。しかし、「一寸法師」の物語の中で両者のつながりを示すものは無いようです。ところが、同じ御伽草子の中の「小男の草子」ではそのつながりが示唆されています。説話にあらわされた少彦名命の一つとしてみてみたいと思います。物語のあらましは、次のとおりです。

 ○ 中頃(あまり遠くない昔)、大和国のよりま郡に、身の丈一尺、横八寸の小男がいた。小男が二十歳になったとき、都に上って奉公しようと思い立ち、家を出る。
 ○ 都に着いた小男は、清水(きよみず)で、一人の上﨟 [身分の高い家の女性] に会い、その家に奉公することになる。仕事は、清水山の松の葉をかき集め、薪として持ち帰ることだった。
 ○ あるとき小男は、清水で年の頃は17、8の若い上﨟に会い、一目惚れする。それからというもの、臥せっては泣いてばかりいたので、内の女房[女主人]が心配して話を聞いてやる。
 ○ 恋煩いの話を聞いてかわいそうに思った内の女房は、上﨟のもとに使いをやることにする。小男は文を書き、その使いにことづける。
 ○ 文を見た若い上﨟は、優雅な文に感心し、9日待てとの返事を使いに渡す。
 ○ 当日、小男は身支度を整え、若い上﨟の元に行くが、小男を見た上﨟は驚いて中に入り、障子を閉めてしまった。
 ○ 小男はすかさず和歌(「三日月のほのかに見えて入りぬるは そらやみとこそ言ふべかりけれ」)をおくる。その和歌に感心した若い上﨟は、小男を中に入れるが、小男は、部屋に立てていた琵琶にぶつかって壊してしまう。
 ○ 若い上﨟はとんでもないことだと、小男を廊下に放り出すが、小男はここでも和歌(「数ならぬ憂き身のほどの辛きかな ことわりなれば物も言はれず」)を詠む。再び和歌に感心した上﨟は、小男を部屋に入れて、夫婦の契りを結ぶ。それから、二人の間には、子どももでき、幸せな日々を送った。
 ○ 実は、小男は五條天神のご神体で、天神として顕われ、上﨟は道祖神(さいのかみ)と成る。それからは、男女のことは、五條天神と道祖神にお参りして、よくお願いをすれば叶うということから、五條天神には、今でも人々が群がり集まるようになったということだ。

  「小男の草子」は、「一寸法師」に先行する御伽草子として、室町時代末に作られた奈良絵本等で伝わっています。小男であることと五條天神の神として顕れるとしていることから、少彦名命とのつながりが推測されます。五条天神が男女の縁をとりもつ神社として描かれた背景として、真下氏は、当時の節分に関わる五條天神への信仰があったとされています。詳しくは、参考文献を参照していただきたいと思いますが、ここでは、少彦名命がめでたい縁結びの神として描かれていることを確認しておきたいと思います。

おわりに

 以上、3回にわたり、天津神社に関わるいくつかのトピックについて、記録がある範囲で歴史をたどってみました。天津神社に関して何か新しい話を聞いたな、と思っていただければ幸いです。今回、改めて天津神社の歴史をたどってみて、神社の現在は、古から氏子の人々が協力しあって、ひとつずつ取り組んできた事業の集積であることを強く感じました。神社に現存するものから、百年前、二百年前、三百年前を感じとることも可能ではないでしょうか。その意味で、天津神社は、町内の「歴史スポット」であると言うこともできそうです。(令和5年11月8日 大塚茂、早瀬均)


【参考文献】
(1)岡山県神社庁. 岡山県神社誌. 1981.
(2)梅原猛訳. 古事記. 増補新版. 学研パブリッシング, 2012. (学研M文庫).
(3)川副武種, 佐伯有清訳. 日本書紀. 上. 再販. 中央公論社, 2022.
(4)奥沢康正. 京の民間医療信仰. 思文閣出版, 1991.
(5) 大澤惟貞. 吉備温故秘録. 1789-1801. (『吉備群書集成. 第7輯 吉備温故秘録 巻1-26. 1970』所収).
(6)仮名草子集成. 第46巻. 東京堂出版, 2008
(7)瀬田勝哉. 洛中洛外の群像. 平凡社, 1994.
(8)小男の草子. (『新潮日本古典集成. 御伽草子集.  新潮社, 1980.』所収).
(9)真下美弥子. 『小男の草子』と五条天神の信仰. 説話・伝承学, 1999, 7, 37-48.
(10)工藤早弓. 奈良絵本. 下. 京都書院, 1998. (京都書院アーツコレクション. 72).

【天津神社関係年譜】
年 号 西 暦 記  事
寛文6年 1666 『備前藩領内寄宮記』(岡山藩)に寄宮「貳社 福居」と記載あり。
延宝3年 1675 『備前國々中神社記』(岡山藩)に福居「天神社」について記載あり。
享保6年 1721 『備陽記』に福居邑「天神社」について記載あり。
元文4年 1739 『備陽国志』(和田正尹)に福居「天神」について記載あり。
宝暦3年 1753 寺社雑留「馬場筋替」(『撮要録』」所収)に、天神社の馬場筋の付け替え及び石の鳥居建立の願書あり。
寛政元年〜享和元年 1789-1801 『吉備温故秘録』(大澤惟貞)に福居「天神社」について記載あり。
天保3年 1832 石灯籠一基建立。
天保10年 1839 石灯籠一基建立
天保11年 1840 本殿、幣殿、拝殿の建て替え
明治2年 1868 旧号「天神社」から「天津神社」に改号
明治3年 1869 『神社神名帳』(岡山藩)に福居「天津神社」について記載あり。
昭和56年 1981 拝殿、幣殿の建て替え。本殿一部改修。
平成25年 2013 本殿建て替え
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